ふるさと浦安の昔を語る 六軒宿ものがたり
その1 『お お か ん け』
私の子供の頃の思い出の一つに「おおかんけ」があります。
昔と言ってもまだ四十年程前までは行われていたのではないでしょうか。
二月の初午日に行われる行事で、夕方から男の子供たちが近所のお稲荷様集まります。私が参加したお稲荷さんは、六軒宿のやや西寄りにいた「ごんぜむ」の家のものでした。そこの家のお稲荷様に立てられている,赤地に、「正一位稲荷大明神」と黒く太い字で書かれたのぼり旗が立てられています。こののぼり旗を、稲荷様を祀っている家の人から貸しいただき、おおむね7人前後くらいで、そののぼり旗を先頭に、暗くなりかけた街へ列を作って出かけて行きます。のぼり旗に続く子供たちの手には、それぞれ「ざる」や布袋などが握られています。
初午のこの日は。「おおかんけ おおかんけお稲荷さんのおおかんけ、おぞうにとおあげ おあげの下からおっこって、赤いチンポすりむいて、いてとも言わず かいとも言わずただ泣くばかり、あげてくんねとコンコンさんが泣くよ、どうやって泣くよ コンコンて泣くよ、ふっくるけっちゃべっかっこ、でんぐれけっちゃ あわわ あげてくんせえな」と声をあわせてはやしながら、近所の家々を回ります。門口に立たれてはやされたそれぞれ
の家の人は、待っていたようにお金やミカンなどの食べ物を、子供たちの差し出す「ざる」
などに、「ご苦労さん」と言いながら入れます。子供たちいっせいに「商売繁盛・商売繁盛」とはやし立てながら次の家に移ります。
これは、近所の家々が子供たちの手を借りてお稲荷さんにあげものを託すという古くからの浦安の風習です。1時間ほど家々を回った子供たちはいっぱいになった「ざる」や布袋を持ってお稲荷さんの家にります。お稲荷さんの家の人は、「ご苦労さん。ご苦労さん。」と笑顔で迎え、「いしらあ、皆で分けろよ」と、子供たちのリーダーに渡し、集めてきたお金や食べ物のほとんどを子供たちに分け与えてくれるのです。
私も子供の頃、近所の権左衛門のお稲荷さんののぼり旗を持って先頭になって「おおかんけ」を何度かした思い出があります。分け与えられたお金は、普段自分の家でもらう小遣いの数倍にもなるのです。子供たちは大喜び、普段はとても食べられない美味しいもの
を食べたり,映画を見に行ったりしました。その喜びから、子供たちには一年一度の楽しいい催しであったのです。また、お稲荷様を持っている家では「いしらこお、いしらぁこおよ」といって子供たちに呼びかけ、おこわとか煮しめなども御馳走してくれるので大概七人から八人のグループが毎年集まってきていました.
しかし、戦後十数年経った頃から、次第に行われなくなりました。
「おおかんけ」で回るとき、お金などをくれた家には「商売繁盛」「商売繁盛」と唱え、くれなかった家には「けぇちんぼ」「けぇちんぼ」と唱えました。
そこで、30代半ば頃から、このようなことは、教育上良くないと、学校では出来るだけ行わないよう指導するようになっていったようです。
「おおかんけ」には、いろいろ決まりのようなものがあり、まわる範囲も決められていたようです。その頃、数十軒に一箇所というように、あちこちにお稲荷さんが祀られていました。そこで、○○のお稲荷さんの組はここから先は駄目というように暗黙の線引きのようなものがありました。特に、境川を越して隣の部落、例えば猫実から掘江の地区へは行ってはいけないことになっていました.ある年、のぼり旗の取りあいで、六軒宿を先の組に回られてしまい、近所を回ると「いしらあ遅ぇえよ。さっき来て、もういらあ上げちゃったよう。駄目だ。駄目だ」と戸ごとに言われてしまいました。そこで、思い切って「記念橋」を渡り、対岸の堀江の宿中(現在のフラワー通り)を、堀江の一行の振りをして回ったところ、「いしらあ、猫実のもんじゃねえか。駄目だ、駄目だ。堀江の方いくら回ってもだいも上げんもんはねえよ」と追い払われてしまいました。苦い思い出です。
ちなみに、おおかんけの語源は、「歓化」で、寺院の建設・改修などのため寄付を集めること、勧進からきているものと思われます。またこの行事が、欧米の「ハローウイン」にどこか通じるものがあるのも、興味深く感じます。
その1 『お お か ん け』
私の子供の頃の思い出の一つに「おおかんけ」があります。
昔と言ってもまだ四十年程前までは行われていたのではないでしょうか。
二月の初午日に行われる行事で、夕方から男の子供たちが近所のお稲荷様集まります。私が参加したお稲荷さんは、六軒宿のやや西寄りにいた「ごんぜむ」の家のものでした。そこの家のお稲荷様に立てられている,赤地に、「正一位稲荷大明神」と黒く太い字で書かれたのぼり旗が立てられています。こののぼり旗を、稲荷様を祀っている家の人から貸しいただき、おおむね7人前後くらいで、そののぼり旗を先頭に、暗くなりかけた街へ列を作って出かけて行きます。のぼり旗に続く子供たちの手には、それぞれ「ざる」や布袋などが握られています。
初午のこの日は。「おおかんけ おおかんけお稲荷さんのおおかんけ、おぞうにとおあげ おあげの下からおっこって、赤いチンポすりむいて、いてとも言わず かいとも言わずただ泣くばかり、あげてくんねとコンコンさんが泣くよ、どうやって泣くよ コンコンて泣くよ、ふっくるけっちゃべっかっこ、でんぐれけっちゃ あわわ あげてくんせえな」と声をあわせてはやしながら、近所の家々を回ります。門口に立たれてはやされたそれぞれ
の家の人は、待っていたようにお金やミカンなどの食べ物を、子供たちの差し出す「ざる」
などに、「ご苦労さん」と言いながら入れます。子供たちいっせいに「商売繁盛・商売繁盛」とはやし立てながら次の家に移ります。
これは、近所の家々が子供たちの手を借りてお稲荷さんにあげものを託すという古くからの浦安の風習です。1時間ほど家々を回った子供たちはいっぱいになった「ざる」や布袋を持ってお稲荷さんの家にります。お稲荷さんの家の人は、「ご苦労さん。ご苦労さん。」と笑顔で迎え、「いしらあ、皆で分けろよ」と、子供たちのリーダーに渡し、集めてきたお金や食べ物のほとんどを子供たちに分け与えてくれるのです。
私も子供の頃、近所の権左衛門のお稲荷さんののぼり旗を持って先頭になって「おおかんけ」を何度かした思い出があります。分け与えられたお金は、普段自分の家でもらう小遣いの数倍にもなるのです。子供たちは大喜び、普段はとても食べられない美味しいもの
を食べたり,映画を見に行ったりしました。その喜びから、子供たちには一年一度の楽しいい催しであったのです。また、お稲荷様を持っている家では「いしらこお、いしらぁこおよ」といって子供たちに呼びかけ、おこわとか煮しめなども御馳走してくれるので大概七人から八人のグループが毎年集まってきていました.
しかし、戦後十数年経った頃から、次第に行われなくなりました。
「おおかんけ」で回るとき、お金などをくれた家には「商売繁盛」「商売繁盛」と唱え、くれなかった家には「けぇちんぼ」「けぇちんぼ」と唱えました。
そこで、30代半ば頃から、このようなことは、教育上良くないと、学校では出来るだけ行わないよう指導するようになっていったようです。
「おおかんけ」には、いろいろ決まりのようなものがあり、まわる範囲も決められていたようです。その頃、数十軒に一箇所というように、あちこちにお稲荷さんが祀られていました。そこで、○○のお稲荷さんの組はここから先は駄目というように暗黙の線引きのようなものがありました。特に、境川を越して隣の部落、例えば猫実から掘江の地区へは行ってはいけないことになっていました.ある年、のぼり旗の取りあいで、六軒宿を先の組に回られてしまい、近所を回ると「いしらあ遅ぇえよ。さっき来て、もういらあ上げちゃったよう。駄目だ。駄目だ」と戸ごとに言われてしまいました。そこで、思い切って「記念橋」を渡り、対岸の堀江の宿中(現在のフラワー通り)を、堀江の一行の振りをして回ったところ、「いしらあ、猫実のもんじゃねえか。駄目だ、駄目だ。堀江の方いくら回ってもだいも上げんもんはねえよ」と追い払われてしまいました。苦い思い出です。
ちなみに、おおかんけの語源は、「歓化」で、寺院の建設・改修などのため寄付を集めること、勧進からきているものと思われます。またこの行事が、欧米の「ハローウイン」にどこか通じるものがあるのも、興味深く感じます。