浦 安 と 戦 争
ここでは、私の記憶にもつながる「太平洋戦争」について、浦安がどのような状況にあったかをのべたいと思う。
「昭和16年12月8日未明太平洋戦争が勃発し、正午になると、千葉県知事から各市町村に、防空実施の命令が出された。同日午後1時、浦安防空本部長代理早川武雄は急遽防空監視哨員に立哨を命じ、防空警報を迅速に伝達するため、各分団詰め所に当直員を配置した。このほか連合班長を通じ、各家庭に警戒警報発令時には、直射光が戸外に洩れないようよう電灯に必ず覆いをかけ、空襲警報が発令された時は消灯するよう命じた。また、焼夷弾に備え、あらゆる容器に水を満たし、火たたき、砂、むしろなどを用意させ、防空従事者には鉄カブトをその他全町民に、綿頭巾を使用するよう指示し、防衛体制を整えた」
と浦安町史に開戦時の緊迫した街の様子が記載されている。
太平洋戦争が始まった時、私は5歳になったばかり、ほとんど記憶がない。ただ、この年に尋常小学校から改称された浦安国民学校に、2年後の昭和18年に入学、戦時下の小学校生活を送ることになるので、子供心に感じるものが多かったと思っている。
戦争が激しくなるにつれ物資の不足が深刻になり、特に食料品の配給制、米の代わりにムギ、トウモロコシ、大豆などの雑穀が多く入った混ぜご飯、バレイショ、サツマイモなどの代用食などは、成長期の私などにはつらい思い出になっている。
昭和18年になると、軍需資材の不足から金属の供出が始まり、各寺院の梵鐘、警防団の半鐘、火の見櫓、小学校の鉄柵などのほか、各家庭の門扉へい、トタンをはじめ,仏具、かま、なべまで供出するようになった。
小学校2年生だった昭和19年8月、通っていた国民学校東側校舎と幼稚園舎に、東部第12381部隊(野戦銃砲兵部隊)が駐屯、校内はもとより町内に軍服姿が目立った。この頃から米B29による空襲は次第に激しさを増し、11月27日には、ついに米軍の爆撃機によって大きな損害を受けることになる。
この日は、正午過ぎに空襲警報が発令され、B29の編隊が浦安の上空に飛来し、二回にわたり爆撃した。一回目は6発、二回目は5発の爆弾が,町の西部に投下され大きな被害を受けた。この空襲では、直撃弾を受けて死者2名、重傷者2名という惨事になり建物にも大きな損害を与えた。他に周辺の耕地3カ所に落下し、水田に大きな穴をあけた。焼夷弾も当代島の民家に落下したが大事に至らず消し止めた。11月29日夜半にも空襲警報が2回発令され、猫実海岸と当代島北側耕地に焼夷弾が大量に投下されたが、幸いにして被害はなかった。また、この頃から浦安の上空を飛来する米軍機との空中戦や、高射砲弾が命中して黒煙を吐きながら遁走するB29の姿が何回も見られた。
昭和20年に入ると空襲は連日のように行われた。2月19日には、B29の編隊が本町に接近し、当代島地区に3個の爆弾を投下した。そのうち1弾は防空壕を直撃、子ども2人を含む5人が爆風に吹き飛ばされた、見るも無惨な最後を遂げた。また1弾は付近家屋7棟に多大な損害を与えた.
3月9日、夜半から出された空襲警報は翌10日の午前2時半頃まで続いた。房総南部から進入したB29は1機また1機と高度あげて浦安の上空を西進し、東京に焼夷弾の雨を降らせた。浦安にも焼夷弾が大量に投下されたが、落ちたところが海岸や水田であったので被害を免れた。「東京大空襲」と言われるこの爆撃で、下町を中心に東京の4割が焼け、死者7万2000人、焼失家屋約18万棟、約100万人が焼け出された。
恐怖の一夜が明けると、東京方面から罹災者が殺到した。町では早朝から、浦安橋通りT字路付近に救護所を設け、湯茶と炊き出し、負傷者への応急処置などで対応した。
4月8日、B29一機が上空に現れ、猫実東部「に爆弾6個を投下した。この空襲では、死者2名、負傷者1名のほか、物置2棟が大破したほか、住宅16棟に被害を与えた。
終戦を迎える8月15日まで、B29やP51、艦載機による攻撃は頻繁に行われた。また、前後百数十回に及ぶ東京方面への空襲で、初めのうちは米軍機の動向を告げるラジオの声に戦々恐々としていた町民もいつしかこれを「お客様」と呼ぶようになり、異常生活の連続からなれっこになってしまったという。
ここでは、私の記憶にもつながる「太平洋戦争」について、浦安がどのような状況にあったかをのべたいと思う。
「昭和16年12月8日未明太平洋戦争が勃発し、正午になると、千葉県知事から各市町村に、防空実施の命令が出された。同日午後1時、浦安防空本部長代理早川武雄は急遽防空監視哨員に立哨を命じ、防空警報を迅速に伝達するため、各分団詰め所に当直員を配置した。このほか連合班長を通じ、各家庭に警戒警報発令時には、直射光が戸外に洩れないようよう電灯に必ず覆いをかけ、空襲警報が発令された時は消灯するよう命じた。また、焼夷弾に備え、あらゆる容器に水を満たし、火たたき、砂、むしろなどを用意させ、防空従事者には鉄カブトをその他全町民に、綿頭巾を使用するよう指示し、防衛体制を整えた」
と浦安町史に開戦時の緊迫した街の様子が記載されている。
太平洋戦争が始まった時、私は5歳になったばかり、ほとんど記憶がない。ただ、この年に尋常小学校から改称された浦安国民学校に、2年後の昭和18年に入学、戦時下の小学校生活を送ることになるので、子供心に感じるものが多かったと思っている。
戦争が激しくなるにつれ物資の不足が深刻になり、特に食料品の配給制、米の代わりにムギ、トウモロコシ、大豆などの雑穀が多く入った混ぜご飯、バレイショ、サツマイモなどの代用食などは、成長期の私などにはつらい思い出になっている。
昭和18年になると、軍需資材の不足から金属の供出が始まり、各寺院の梵鐘、警防団の半鐘、火の見櫓、小学校の鉄柵などのほか、各家庭の門扉へい、トタンをはじめ,仏具、かま、なべまで供出するようになった。
小学校2年生だった昭和19年8月、通っていた国民学校東側校舎と幼稚園舎に、東部第12381部隊(野戦銃砲兵部隊)が駐屯、校内はもとより町内に軍服姿が目立った。この頃から米B29による空襲は次第に激しさを増し、11月27日には、ついに米軍の爆撃機によって大きな損害を受けることになる。
この日は、正午過ぎに空襲警報が発令され、B29の編隊が浦安の上空に飛来し、二回にわたり爆撃した。一回目は6発、二回目は5発の爆弾が,町の西部に投下され大きな被害を受けた。この空襲では、直撃弾を受けて死者2名、重傷者2名という惨事になり建物にも大きな損害を与えた。他に周辺の耕地3カ所に落下し、水田に大きな穴をあけた。焼夷弾も当代島の民家に落下したが大事に至らず消し止めた。11月29日夜半にも空襲警報が2回発令され、猫実海岸と当代島北側耕地に焼夷弾が大量に投下されたが、幸いにして被害はなかった。また、この頃から浦安の上空を飛来する米軍機との空中戦や、高射砲弾が命中して黒煙を吐きながら遁走するB29の姿が何回も見られた。
昭和20年に入ると空襲は連日のように行われた。2月19日には、B29の編隊が本町に接近し、当代島地区に3個の爆弾を投下した。そのうち1弾は防空壕を直撃、子ども2人を含む5人が爆風に吹き飛ばされた、見るも無惨な最後を遂げた。また1弾は付近家屋7棟に多大な損害を与えた.
3月9日、夜半から出された空襲警報は翌10日の午前2時半頃まで続いた。房総南部から進入したB29は1機また1機と高度あげて浦安の上空を西進し、東京に焼夷弾の雨を降らせた。浦安にも焼夷弾が大量に投下されたが、落ちたところが海岸や水田であったので被害を免れた。「東京大空襲」と言われるこの爆撃で、下町を中心に東京の4割が焼け、死者7万2000人、焼失家屋約18万棟、約100万人が焼け出された。
恐怖の一夜が明けると、東京方面から罹災者が殺到した。町では早朝から、浦安橋通りT字路付近に救護所を設け、湯茶と炊き出し、負傷者への応急処置などで対応した。
4月8日、B29一機が上空に現れ、猫実東部「に爆弾6個を投下した。この空襲では、死者2名、負傷者1名のほか、物置2棟が大破したほか、住宅16棟に被害を与えた。
終戦を迎える8月15日まで、B29やP51、艦載機による攻撃は頻繁に行われた。また、前後百数十回に及ぶ東京方面への空襲で、初めのうちは米軍機の動向を告げるラジオの声に戦々恐々としていた町民もいつしかこれを「お客様」と呼ぶようになり、異常生活の連続からなれっこになってしまったという。
大きな被害を受けた主なものをあげてきたが、私の実感を含め「浦安の空襲」について要約してみたい。
①米軍機は、東京湾の東方海上から東京方面に向かっていたので、殆どが浦安上空を通過していたので、その都度「空襲警報」が発令されていた。そのうち10回程度爆弾や焼夷弾が投下され、大きな被害を受けた。
②当時の浦安は、境川の両側、当代島船圦川の両側を中心に住宅が密集しており、それ以外は市川方面につながる県道沿いと浦安橋を挟んだ江戸川沿いに住宅が点在していた。それ以外は多くの田んぼと一部の原野が広がり、南と東は海に面していた。この地形から、投下された多くの爆弾と焼夷弾の殆どが田んぼ中であったことが、その回数の割に死傷者や建物などの損壊が少なくしてすんだ。焼夷弾の雨が、密集地に降れば建物の焼失はもとより多くの死傷者を出したものと思う。
③猫実東の海岸近くに高射砲陣地があり、撃墜された米軍機が東の浅瀬や海上に落下した。また浦安上空ではたびたび空中戦が見られた。昭和20年5月には、撃墜されたB29が海岸から東1キロの遠浅海面に落下、後日その残骸を友達と見に行った思い出がある。
①米軍機は、東京湾の東方海上から東京方面に向かっていたので、殆どが浦安上空を通過していたので、その都度「空襲警報」が発令されていた。そのうち10回程度爆弾や焼夷弾が投下され、大きな被害を受けた。
②当時の浦安は、境川の両側、当代島船圦川の両側を中心に住宅が密集しており、それ以外は市川方面につながる県道沿いと浦安橋を挟んだ江戸川沿いに住宅が点在していた。それ以外は多くの田んぼと一部の原野が広がり、南と東は海に面していた。この地形から、投下された多くの爆弾と焼夷弾の殆どが田んぼ中であったことが、その回数の割に死傷者や建物などの損壊が少なくしてすんだ。焼夷弾の雨が、密集地に降れば建物の焼失はもとより多くの死傷者を出したものと思う。
③猫実東の海岸近くに高射砲陣地があり、撃墜された米軍機が東の浅瀬や海上に落下した。また浦安上空ではたびたび空中戦が見られた。昭和20年5月には、撃墜されたB29が海岸から東1キロの遠浅海面に落下、後日その残骸を友達と見に行った思い出がある。