幻の「文学碑」~山本周五郎作青べか物語~
作家山本周五郎が、昭和初期に当時の浦安の町に1年半滞在、その頃の日記をもとに描いた名作「青べか物語」を、ふるさと浦安の史跡のひとつととらえ、後世に残したいという願いをこめて取り組んだ活動。残念ながら当局の理解が得られず、「幻の文学碑」となってしまった。この取り組みは、何らかの形で残しておき、出来たら、いつの日か実現されることの「火種」となるよう、その顛末を整理し、記録とした。
文学碑の建立について(趣意書)
山本周五郎の「青べか物語」は、昭和3年(1928)夏から翌年秋まで浦安に逗留し、その間の日記を土台に書いた周五郎の代表的な作品である。
来年は、山本周五郎が浦安に居をかまえた昭和3年(からちょうど90年にあたる。
今は、東京ディズニーランドで国内はもとより世界的にも知られる「浦安」だが、かつては「青べか物語の浦安」として、文学愛好者を中心に親しまれていた。 (*昭和37年6月には川島雄三監督・森繁久弥主演の映画「青べか物語」が封切られ、その舞台として全国的にも知られることになった)
「青べか物語」に描かれた当時の浦安は、人情味あふれる古き良き「浦安」を背景に作者山本周五郎の庶民的共感によって裏付けられたものである。一年余りの間に接した人々びとや出来事、その自らの体験を土台にした小説の世界ではあるが、時を超えた「ふるさと浦安」なのだ。
私たちは、人情作家山本周五郎のフアンであり、中でも名作「青べか物語」をこよ なく愛している。90年という節目の年にあたり、周五郎が逗留中の足跡をしらべ、そのゆかりの場所に「山本周五郎 青べか物語」文学碑を建立し、史跡のひとつとしたいと願っている。 平成29年(2017)6月
資 料
「青べか物語」は、作家山本周五郎の数ある作品の中でも、 名作として知られている。 山本周五郎は、昭和3年(1928)夏、浦安へスケッチブックを持ってぶらりと訪れた。作家としてのスタートを切ったばかり、失意と困窮の中にいた25歳の文学青年だった。当時の浦安の風景や漁師町の気風が気に入った山本はそのまま住みつき、翌昭和4年秋までの一年数か月の間滞在した。滞在中の見聞をもとに、昭和35年に至って、一年間にわたり「文芸春秋」に連載され、その後すぐに単行本とした刊行されたのが「青べか物語」である。浦安に滞在していた頃につけていた日記は、周五郎が亡くなった後、読書雑誌「波」(昭和45年3,4月号~12月)に「青べか日記」として掲載された。
「青べか物語」は、主人公が、小さな少年にすら軽蔑されている「青べか」を買った話で幕をあける。当時の浦安は、貝の缶詰工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして魚釣りにくる客のための釣り舟屋と、ごったく屋と呼ばれ小料理店の多い孤立した町だったという。周五郎は町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、一年余りの一人暮らしをおくったようだ。
「青べか物語」とは、この間、作者が町で見聞したこと、あるいは体験したことを、町の風俗や作者の心境を絡ませて描いた小説である。左記に述べた青べかを買った話に見られるのは、べか舟という風物や町の人々の様相だけでなく、軽蔑のまとの青べかに投影された作者自身の闘い疲れた姿である。と同時に「青べか物語」には、作者の浦安への愛着や人情深い町の人々への暖かい眼差しが漂っている。昔ふうの小さな町で繰り広げられる人情話や恋物語---昭和初期にもこういう町があったのかと思われるほど、周五郎の書いた、浦粕の町はほのぼのとした雰囲気につつまれている。
昭和35年、山本は生涯を通じての最高の文学的到達とも評価される傑作「青べか物語」を発表した。文学青年時代、1年数ヶ月を暮らした千葉県浦安町(当時)での、漁師町得意な気質をビビッドに描き出し、人間の原形質をりだしたこの作品は、単なる地方色の描出にとどまらず、普遍妥当性をもつ別乾坤の創造に成功しており、前人未踏の文学世界を現前せしめたと称しても過言であるまい。
山口瞳のエッセイから
山本周五郎は天成の詩人である。誰が何と言おうとも、私はそう思っている。
「青べか物語」は小説でも身辺雑記でも青春回顧録でもなく、あれこそは、まさに詩だ。しかし、残念ながら、山本周五郎の詩人としての資質が完全に開花したのは「青べか物語」 だけだと思っている。私は山本周五郎の良い読者ではないのだけれど、そう断言してほ ぼ間違いないと確信している。
「評論 山本周五郎」(尾崎秀樹著)から抜粋
昭和3年には千葉県の浦安町に移った。スケッチに出かけ、浦安風景に引きつけられたのが、その気になった理由だといわれる。彼は昭和3年夏から翌年秋まで浦安で暮らした。 その間五度も下宿を変え、そのいくつかは現在でも昔の面影をとどめて残っている。特に土手下の下宿や、船宿の吉野屋などは、「青べか物語」にちなむところとして重要だ。
山本周五郎は蒸気船の発着所の周辺にしばらく住んでいたことから、蒸気河岸の先生とよばれ、したしまれたらしい。彼は定期船で高橋まで渡り、桜橋の日本魂社に通勤していたが、遅刻が多く、秋にはクビになった。山本質店からの経済的援助にいつまでも甘えるわけにはゆかない。作家としてたつ決意をかためていた彼は、生活苦とたたかいながら劇作や創作にうちこみ、疲れると沖の百万坪に出たり、青べかとよばれる小さな舟に乗って釣りをしたりした。
当時の日記には山本周五郎の浦安での日々が、かなりくわしく述べられている。
彼は30年後に「青べか物語」と題して、浦安生活をもとににした連作をまとめたが、日記はその虚構と事実の距離をしめしており、無名の文学青年が味わった苦渋と孤独、希望と絶望、愛と憎しみを物語っている。
昭和4年秋には東京へもどり、虎ノ門の晩翠軒裏にあった仕立屋の二階に下宿した。
浦安は山本周五郎の「青べか物語」ですっかり有名になってしまった。今でこそ地下鉄を利用すると、浦安まであっという間についてしまうが、昔はバスに乗るにしても、船を用いるにしても、なかなかたいへんだった。
文学碑の建立について(趣意書)
山本周五郎の「青べか物語」は、昭和3年(1928)夏から翌年秋まで浦安に逗留し、その間の日記を土台に書いた周五郎の代表的な作品である。
来年は、山本周五郎が浦安に居をかまえた昭和3年(からちょうど90年にあたる。
今は、東京ディズニーランドで国内はもとより世界的にも知られる「浦安」だが、かつては「青べか物語の浦安」として、文学愛好者を中心に親しまれていた。 (*昭和37年6月には川島雄三監督・森繁久弥主演の映画「青べか物語」が封切られ、その舞台として全国的にも知られることになった)
「青べか物語」に描かれた当時の浦安は、人情味あふれる古き良き「浦安」を背景に作者山本周五郎の庶民的共感によって裏付けられたものである。一年余りの間に接した人々びとや出来事、その自らの体験を土台にした小説の世界ではあるが、時を超えた「ふるさと浦安」なのだ。
私たちは、人情作家山本周五郎のフアンであり、中でも名作「青べか物語」をこよ なく愛している。90年という節目の年にあたり、周五郎が逗留中の足跡をしらべ、そのゆかりの場所に「山本周五郎 青べか物語」文学碑を建立し、史跡のひとつとしたいと願っている。 平成29年(2017)6月
資 料
「青べか物語」は、作家山本周五郎の数ある作品の中でも、 名作として知られている。 山本周五郎は、昭和3年(1928)夏、浦安へスケッチブックを持ってぶらりと訪れた。作家としてのスタートを切ったばかり、失意と困窮の中にいた25歳の文学青年だった。当時の浦安の風景や漁師町の気風が気に入った山本はそのまま住みつき、翌昭和4年秋までの一年数か月の間滞在した。滞在中の見聞をもとに、昭和35年に至って、一年間にわたり「文芸春秋」に連載され、その後すぐに単行本とした刊行されたのが「青べか物語」である。浦安に滞在していた頃につけていた日記は、周五郎が亡くなった後、読書雑誌「波」(昭和45年3,4月号~12月)に「青べか日記」として掲載された。
「青べか物語」は、主人公が、小さな少年にすら軽蔑されている「青べか」を買った話で幕をあける。当時の浦安は、貝の缶詰工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして魚釣りにくる客のための釣り舟屋と、ごったく屋と呼ばれ小料理店の多い孤立した町だったという。周五郎は町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、一年余りの一人暮らしをおくったようだ。
「青べか物語」とは、この間、作者が町で見聞したこと、あるいは体験したことを、町の風俗や作者の心境を絡ませて描いた小説である。左記に述べた青べかを買った話に見られるのは、べか舟という風物や町の人々の様相だけでなく、軽蔑のまとの青べかに投影された作者自身の闘い疲れた姿である。と同時に「青べか物語」には、作者の浦安への愛着や人情深い町の人々への暖かい眼差しが漂っている。昔ふうの小さな町で繰り広げられる人情話や恋物語---昭和初期にもこういう町があったのかと思われるほど、周五郎の書いた、浦粕の町はほのぼのとした雰囲気につつまれている。
昭和35年、山本は生涯を通じての最高の文学的到達とも評価される傑作「青べか物語」を発表した。文学青年時代、1年数ヶ月を暮らした千葉県浦安町(当時)での、漁師町得意な気質をビビッドに描き出し、人間の原形質をりだしたこの作品は、単なる地方色の描出にとどまらず、普遍妥当性をもつ別乾坤の創造に成功しており、前人未踏の文学世界を現前せしめたと称しても過言であるまい。
山口瞳のエッセイから
山本周五郎は天成の詩人である。誰が何と言おうとも、私はそう思っている。
「青べか物語」は小説でも身辺雑記でも青春回顧録でもなく、あれこそは、まさに詩だ。しかし、残念ながら、山本周五郎の詩人としての資質が完全に開花したのは「青べか物語」 だけだと思っている。私は山本周五郎の良い読者ではないのだけれど、そう断言してほ ぼ間違いないと確信している。
「評論 山本周五郎」(尾崎秀樹著)から抜粋
昭和3年には千葉県の浦安町に移った。スケッチに出かけ、浦安風景に引きつけられたのが、その気になった理由だといわれる。彼は昭和3年夏から翌年秋まで浦安で暮らした。 その間五度も下宿を変え、そのいくつかは現在でも昔の面影をとどめて残っている。特に土手下の下宿や、船宿の吉野屋などは、「青べか物語」にちなむところとして重要だ。
山本周五郎は蒸気船の発着所の周辺にしばらく住んでいたことから、蒸気河岸の先生とよばれ、したしまれたらしい。彼は定期船で高橋まで渡り、桜橋の日本魂社に通勤していたが、遅刻が多く、秋にはクビになった。山本質店からの経済的援助にいつまでも甘えるわけにはゆかない。作家としてたつ決意をかためていた彼は、生活苦とたたかいながら劇作や創作にうちこみ、疲れると沖の百万坪に出たり、青べかとよばれる小さな舟に乗って釣りをしたりした。
当時の日記には山本周五郎の浦安での日々が、かなりくわしく述べられている。
彼は30年後に「青べか物語」と題して、浦安生活をもとににした連作をまとめたが、日記はその虚構と事実の距離をしめしており、無名の文学青年が味わった苦渋と孤独、希望と絶望、愛と憎しみを物語っている。
昭和4年秋には東京へもどり、虎ノ門の晩翠軒裏にあった仕立屋の二階に下宿した。
浦安は山本周五郎の「青べか物語」ですっかり有名になってしまった。今でこそ地下鉄を利用すると、浦安まであっという間についてしまうが、昔はバスに乗るにしても、船を用いるにしても、なかなかたいへんだった。