「3・11」に想う
2011年3月11日。
この日、私は予約していた歯科医と理髪店に立ち寄り、10時40分に出社した。いつもと同じ穏やかな日だった。
午後2時46分、ゴーッという鈍い音のあと、突然大きな揺れが長く続いた。地震発生。(浦安は震度五強)
社内も大きく揺れ、書棚の書籍類、置物、食器類などが飛び出し、多くが破損。床面に散らばっている。
事務室の佐藤さんが悲鳴を上げ、廊下に飛び出して階段を駈けおり、外に飛び出そうとしている。とっさに「この建物は、鉄骨コンクリート造りだから揺れは大きいが、倒れることはないから」と叫び、佐藤さんの足を止めた。階段を上がって、直ぐの表面に置いてあった「熱帯魚の水槽」が、台から飛びだし、割れて、中の水が熱帯魚とともに、廊下一面に散らばっている。急いで、階下に影響がないように水処理を佐藤さんと行って、事なきを得た。余震はなおも続いている。破損して散乱しているものなど、とりあえず片付け、一段落したしたあと、会長を務めていた「社協」(浦安市社会福祉協議会)に、被災状況と今後の対応について知るため、担当に電話した。この時点では具体的な連絡はなかった。 午後9時頃、佐久間常務理事から電話があり、明12日に「災害ボランティアセンター」を立ち上げるとの一報があった。
12日(土)午前9時「社協」へ。市社会福祉会館内に「災害ボランティアセンター」を開設。社協会長として本部長に就任。直ちに対策、支援等について協議を行った。断水、停電、下水道不能のために使えない水洗トイレ。そのための、「Uセンター」(社協が受託運営している老人福祉センター)のトイレの開放。市職員はじめ各支援活動にあたるスタッフへの食事提供、そのための炊き出し(おにぎりを)が婦人の会役員を中心に行われるなど、早速活動を開始した。余震が続く中、この日から3月30日の新規登録終了まで、本部長として幹部職員と協議しつつ、関係者の支援のもと懸命に対応した。東京ディズニーランドがあることもあって、近隣以外からも、若い人たちを中心に予想をはるかに超えるボランティアの方々が訪れ、復旧作業等に携わってくれた。その仕事の大半が、液状化によって発生した泥土の処理であった。海面埋め立てによって造成されたニュータウン(主に中町の戸建て住宅地域)を中心に、住宅の出入り口まで入り込んだ泥土。特に女性だけの世帯や高齢者だけの世帯からの要請が多く、対応にあたってもらった。心配したのは、中学生も含む男女、特に女性方々による土木作業で、怪我など人的事故の発生だった。現場で指示監督する担当者に、「くれぐれも怪我の無いよう、気を配ってほしい」と声かけをして廻った。あわせて、被災した家庭を訪問激励を行い、状況次第では微力ながら自らも作業に加わった。街路をおおっていた泥土等の除去が大方終わっても、断水・下水道の使用不能・電線復旧後も続いた計画停電等で、被災状況は思ったより苛酷で、長く続いた。
3月22日、この日は午前中「ボランティァセンター」の打合会があり、午後からは健康センターでの「介護保険運営協議会」に出席し、午後3時頃出社した。その直後、私は急な発熱(40度5分)におそわれ、強いふるえを感じる程だった。事務員が近くに住む娘に連絡、娘と孫が駆けつけてくれ、かかりつけの大川医院に急ぎ搬送してくれた。急遽、診断の上、注射等、解熱のための処置を施してくれ事なきを得た。74歳という年齢と心労等もかさなってのことだと思う。断水・停電、特に下水道不通の状態から、入浴が出来ない家庭が多かった。災害対策本部からの要請もあり、Uセンターの浴場開放を、地区日替わりで行い喜ばれた。専用バスで送迎も行った。このほか、社協としても被災者のための対応につとめた。初めての経験で、最初は戸惑いもあったが、いち早く隣の市川市社協から、アドバイスや資機材の貸し出し提供もいただき、大いに助かり心から感謝している。終わってみると、市災害対策本部との連携がうまく行ってなかったことなども多く、反省点もあり、そのことが、後日災害ボランティアセンターの常設につながったのは良かったと思う。3月26日からは、「東北・関東大震災義援金」募金活動がはじまった。社協として、初日にボーイスカウト第一団等の協力を得て、東西線浦安駅前での街頭募金活動を開始した。この活動は市内高校生、支部社協役員等多くの応援を得て、4月末まで断続的に行われた。こうして、「私の3・11」は一つの区切りをむかえたのである。
浦安は、液状化で多大な被害を受けたが、建物の倒壊、火災等による住宅等の焼失はなかった。人的被害も関連死1件を除き無かったのは、不幸中の幸いだった。災害はいつ起こるか知れない。10年を迎える去る3月22日には震度4の地震が発生、比較的大きく揺れたので、一瞬「またか」と思わせるものがあった。
この際、10年前を振り返り、防災・減災の観点から、浦安の現状把握と対策について考え、次善の対応をする必要を
強く感じている。液状化対策は、対象地域での住民の理解、特にそれぞれの自己負担の関係で、一地区をのぞき進展が見られなかったのが現状だ。自己負担の少ない方法での早期の対応が求められている。格子状地中壁工法では、地区
住民の総意が必要で難しく、結果、対策としては進展しなかった。地下水低下工法も、幾分かの地盤沈下が問題であるが、潮来市・神栖市で採用されており、工費も比較的安く、検討にあたいするものと私は思っている
国も、浦安をはじめとする液状化予想地域の不安解消のため、工法等の適切な研究開発に力を注いでほしいものだ。
その上で、実施にあたっての助成処置もより手厚くし、対策の早期実施をはかるよう求めたい。
東日本大地震の余震も続く中、今後予想される首都圏直下型地震への対応として、何としても必要なのは、元町の「木造住宅密集地区」の解消だ。危険区域にも指定されており、「住民の命と財産を守るために」英知と全力をかたむけての取り組みを期待したい。勿論、行政だけでの対応だけでは前進しないことは言うまでもない。関係住民の理解と協力を得るためのたゆまぬ啓蒙活動、話し合いの積み重ねにより、早期の解消を、県・市・住民一体になって図っていくことが肝要だ。最近になって、対象地域での「防災まちづくり勉強会」がひんぱんの行われており、機は熟しつつあると思っている。一日も早い具体化が望まれる。市も区画整理・街路整備等の物理的な改造とともに、都市計画法の土地利用計画(建坪率の柔軟性、容積率の緩和など)を駆使し、住民が参加しやすい「呼び水」的な対応も検討してもらいたい。
「3・11」にあたって、思い出とともに、今後の取り組みについて、今考えていることをまとめてみた。
地震をはじめ、大きな災害のないことを、あらためて祈る一日だった。
(2021年3月11日)
2011年3月11日。
この日、私は予約していた歯科医と理髪店に立ち寄り、10時40分に出社した。いつもと同じ穏やかな日だった。
午後2時46分、ゴーッという鈍い音のあと、突然大きな揺れが長く続いた。地震発生。(浦安は震度五強)
社内も大きく揺れ、書棚の書籍類、置物、食器類などが飛び出し、多くが破損。床面に散らばっている。
事務室の佐藤さんが悲鳴を上げ、廊下に飛び出して階段を駈けおり、外に飛び出そうとしている。とっさに「この建物は、鉄骨コンクリート造りだから揺れは大きいが、倒れることはないから」と叫び、佐藤さんの足を止めた。階段を上がって、直ぐの表面に置いてあった「熱帯魚の水槽」が、台から飛びだし、割れて、中の水が熱帯魚とともに、廊下一面に散らばっている。急いで、階下に影響がないように水処理を佐藤さんと行って、事なきを得た。余震はなおも続いている。破損して散乱しているものなど、とりあえず片付け、一段落したしたあと、会長を務めていた「社協」(浦安市社会福祉協議会)に、被災状況と今後の対応について知るため、担当に電話した。この時点では具体的な連絡はなかった。 午後9時頃、佐久間常務理事から電話があり、明12日に「災害ボランティアセンター」を立ち上げるとの一報があった。
12日(土)午前9時「社協」へ。市社会福祉会館内に「災害ボランティアセンター」を開設。社協会長として本部長に就任。直ちに対策、支援等について協議を行った。断水、停電、下水道不能のために使えない水洗トイレ。そのための、「Uセンター」(社協が受託運営している老人福祉センター)のトイレの開放。市職員はじめ各支援活動にあたるスタッフへの食事提供、そのための炊き出し(おにぎりを)が婦人の会役員を中心に行われるなど、早速活動を開始した。余震が続く中、この日から3月30日の新規登録終了まで、本部長として幹部職員と協議しつつ、関係者の支援のもと懸命に対応した。東京ディズニーランドがあることもあって、近隣以外からも、若い人たちを中心に予想をはるかに超えるボランティアの方々が訪れ、復旧作業等に携わってくれた。その仕事の大半が、液状化によって発生した泥土の処理であった。海面埋め立てによって造成されたニュータウン(主に中町の戸建て住宅地域)を中心に、住宅の出入り口まで入り込んだ泥土。特に女性だけの世帯や高齢者だけの世帯からの要請が多く、対応にあたってもらった。心配したのは、中学生も含む男女、特に女性方々による土木作業で、怪我など人的事故の発生だった。現場で指示監督する担当者に、「くれぐれも怪我の無いよう、気を配ってほしい」と声かけをして廻った。あわせて、被災した家庭を訪問激励を行い、状況次第では微力ながら自らも作業に加わった。街路をおおっていた泥土等の除去が大方終わっても、断水・下水道の使用不能・電線復旧後も続いた計画停電等で、被災状況は思ったより苛酷で、長く続いた。
3月22日、この日は午前中「ボランティァセンター」の打合会があり、午後からは健康センターでの「介護保険運営協議会」に出席し、午後3時頃出社した。その直後、私は急な発熱(40度5分)におそわれ、強いふるえを感じる程だった。事務員が近くに住む娘に連絡、娘と孫が駆けつけてくれ、かかりつけの大川医院に急ぎ搬送してくれた。急遽、診断の上、注射等、解熱のための処置を施してくれ事なきを得た。74歳という年齢と心労等もかさなってのことだと思う。断水・停電、特に下水道不通の状態から、入浴が出来ない家庭が多かった。災害対策本部からの要請もあり、Uセンターの浴場開放を、地区日替わりで行い喜ばれた。専用バスで送迎も行った。このほか、社協としても被災者のための対応につとめた。初めての経験で、最初は戸惑いもあったが、いち早く隣の市川市社協から、アドバイスや資機材の貸し出し提供もいただき、大いに助かり心から感謝している。終わってみると、市災害対策本部との連携がうまく行ってなかったことなども多く、反省点もあり、そのことが、後日災害ボランティアセンターの常設につながったのは良かったと思う。3月26日からは、「東北・関東大震災義援金」募金活動がはじまった。社協として、初日にボーイスカウト第一団等の協力を得て、東西線浦安駅前での街頭募金活動を開始した。この活動は市内高校生、支部社協役員等多くの応援を得て、4月末まで断続的に行われた。こうして、「私の3・11」は一つの区切りをむかえたのである。
浦安は、液状化で多大な被害を受けたが、建物の倒壊、火災等による住宅等の焼失はなかった。人的被害も関連死1件を除き無かったのは、不幸中の幸いだった。災害はいつ起こるか知れない。10年を迎える去る3月22日には震度4の地震が発生、比較的大きく揺れたので、一瞬「またか」と思わせるものがあった。
この際、10年前を振り返り、防災・減災の観点から、浦安の現状把握と対策について考え、次善の対応をする必要を
強く感じている。液状化対策は、対象地域での住民の理解、特にそれぞれの自己負担の関係で、一地区をのぞき進展が見られなかったのが現状だ。自己負担の少ない方法での早期の対応が求められている。格子状地中壁工法では、地区
住民の総意が必要で難しく、結果、対策としては進展しなかった。地下水低下工法も、幾分かの地盤沈下が問題であるが、潮来市・神栖市で採用されており、工費も比較的安く、検討にあたいするものと私は思っている
国も、浦安をはじめとする液状化予想地域の不安解消のため、工法等の適切な研究開発に力を注いでほしいものだ。
その上で、実施にあたっての助成処置もより手厚くし、対策の早期実施をはかるよう求めたい。
東日本大地震の余震も続く中、今後予想される首都圏直下型地震への対応として、何としても必要なのは、元町の「木造住宅密集地区」の解消だ。危険区域にも指定されており、「住民の命と財産を守るために」英知と全力をかたむけての取り組みを期待したい。勿論、行政だけでの対応だけでは前進しないことは言うまでもない。関係住民の理解と協力を得るためのたゆまぬ啓蒙活動、話し合いの積み重ねにより、早期の解消を、県・市・住民一体になって図っていくことが肝要だ。最近になって、対象地域での「防災まちづくり勉強会」がひんぱんの行われており、機は熟しつつあると思っている。一日も早い具体化が望まれる。市も区画整理・街路整備等の物理的な改造とともに、都市計画法の土地利用計画(建坪率の柔軟性、容積率の緩和など)を駆使し、住民が参加しやすい「呼び水」的な対応も検討してもらいたい。
「3・11」にあたって、思い出とともに、今後の取り組みについて、今考えていることをまとめてみた。
地震をはじめ、大きな災害のないことを、あらためて祈る一日だった。
(2021年3月11日)