青ベか物語の浦安
「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣り場で知られていた。」で始まる青べか物語は、山本周五郎が昭和35年(1960)の1月から12月まで「文藝春秋」に連載し大評判となり、その後昭和36年1月には単行本として刊行された小説である。
山本周五郎が、ようやく作家として文壇デビューした昭和のはじめ(1928~1929年)、ブラリと浦安にスケッチに来て、その風景が気にいり約1年半滞在し、その経験をもとに「漁師町浦安」の人々や風俗を、自らの心境をからませながら描いている。
はじめは,現在の旧江戸川にかかる浦安橋を渡った左袂の蒸気河岸の釣り船宿「吉野屋」(小説では船宿千本)の二階に下宿していた。
蒸気河岸とは、行徳・浦安と深川の高橋間に通じていた定期蒸気船の発着場のこと。その後周五郎は、百メートル北の一軒家に移るが、当時の浦安では漁師たちが住む家として多く用いられていた「三軒長屋」のような粗末なものであったという。
「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣り場で知られていた。」で始まる青べか物語は、山本周五郎が昭和35年(1960)の1月から12月まで「文藝春秋」に連載し大評判となり、その後昭和36年1月には単行本として刊行された小説である。
山本周五郎が、ようやく作家として文壇デビューした昭和のはじめ(1928~1929年)、ブラリと浦安にスケッチに来て、その風景が気にいり約1年半滞在し、その経験をもとに「漁師町浦安」の人々や風俗を、自らの心境をからませながら描いている。
はじめは,現在の旧江戸川にかかる浦安橋を渡った左袂の蒸気河岸の釣り船宿「吉野屋」(小説では船宿千本)の二階に下宿していた。
蒸気河岸とは、行徳・浦安と深川の高橋間に通じていた定期蒸気船の発着場のこと。その後周五郎は、百メートル北の一軒家に移るが、当時の浦安では漁師たちが住む家として多く用いられていた「三軒長屋」のような粗末なものであったという。
浦安の中心部は「堀南」と呼ばれる繁華街で、洋食屋、雑貨店、料理屋、寄席、理髪店、銭湯、小商いの店、「ごったくや」(小料理屋)の一画、たった一軒の芝居小屋などがあると紹介している。小説に「四丁目」の洋食屋とあるのは「二十目食堂」のこと、寄席の「浦粕亭」とは「浦安亭」のこと。現在のフラワー通りとその一画にあった。
沖の百万坪には、根戸川から引いた用水路が「一つ圦」から「四つ圦」まで、縦横の水路が通じ、鮒、鯉、鮠、鯰などがよく繁殖し、陸釣りを好む人の格好の場所であること、また沼や池や芦の茂みには、カワウソとかイタチが棲んでいて、「隙さえあれば化かそうと思っている」と書いている。
山本周五郎は,実に良くその頃の堀江・猫実の町並みやそれを取りまく田園風景、さらにはその先に広がる南と東の海について,スケッチしている。
というのも昭和30年代までの浦安は、昭和のはじめ頃と大差なく、東京と目と鼻の先にありながら、実にのどかにして、昔風な人情味あふれる半農半漁のまちであったからだ。
また、町史に残る出来事についても、周囲の人から取材したのであろう、物語に登場させている。「土堤の冬」には,土地に一軒しかしかない芝居小屋「浦安演技館(小説では「浦粕座」)が燃えた話を髙梨夫人から聞き、昨夜、冷雨の中を周五郎の住居前を逃げるように川上に行った家族が。その芝居小屋の人であることを
知る話がある。この演芸館の火事については、年表の昭和3年11月2日の項に「火災により、堀江で6戸焼失する」とある。
また、「浦粕の宗五郎」では、昭和4年、豊国肥料株式会社が堀江一つ圦付近の田んぼを借り受け、ここに東京市から糞尿を伝馬船で運搬し、糞尿肥料工場と、糞尿置き場を建設しようと計画した事について、反対運動に関わるエピソードが書かれている。また、昭和30年代までは、劇場(廃業直前は映画館、集会場など多目的に使用されていた)として残っていた「浦安亭」についても、寄席「浦粕亭」としてほぼ事実に近い形で紹介している。
この浦安亭はなかなかの「寄席」で、浪曲師や講談師にとって登竜門的な存在あった。三波春夫や神田伯山、それに岡晴男なども舞台に上がったことがあり、「浦安」の小屋で手がなれば一人前といわれたというほどの演技場であった。常連客が多く、「耳がこえており」その上、「口が悪い」から、態度に直ぐ表れる。また、「浦安亭」は浦安以外に葛西や行徳にはこのような施設がなく、浦安の住民だけでなく周辺地域の人たちの集まる施設でもあったからだ。
沖の百万坪には、根戸川から引いた用水路が「一つ圦」から「四つ圦」まで、縦横の水路が通じ、鮒、鯉、鮠、鯰などがよく繁殖し、陸釣りを好む人の格好の場所であること、また沼や池や芦の茂みには、カワウソとかイタチが棲んでいて、「隙さえあれば化かそうと思っている」と書いている。
山本周五郎は,実に良くその頃の堀江・猫実の町並みやそれを取りまく田園風景、さらにはその先に広がる南と東の海について,スケッチしている。
というのも昭和30年代までの浦安は、昭和のはじめ頃と大差なく、東京と目と鼻の先にありながら、実にのどかにして、昔風な人情味あふれる半農半漁のまちであったからだ。
また、町史に残る出来事についても、周囲の人から取材したのであろう、物語に登場させている。「土堤の冬」には,土地に一軒しかしかない芝居小屋「浦安演技館(小説では「浦粕座」)が燃えた話を髙梨夫人から聞き、昨夜、冷雨の中を周五郎の住居前を逃げるように川上に行った家族が。その芝居小屋の人であることを
知る話がある。この演芸館の火事については、年表の昭和3年11月2日の項に「火災により、堀江で6戸焼失する」とある。
また、「浦粕の宗五郎」では、昭和4年、豊国肥料株式会社が堀江一つ圦付近の田んぼを借り受け、ここに東京市から糞尿を伝馬船で運搬し、糞尿肥料工場と、糞尿置き場を建設しようと計画した事について、反対運動に関わるエピソードが書かれている。また、昭和30年代までは、劇場(廃業直前は映画館、集会場など多目的に使用されていた)として残っていた「浦安亭」についても、寄席「浦粕亭」としてほぼ事実に近い形で紹介している。
この浦安亭はなかなかの「寄席」で、浪曲師や講談師にとって登竜門的な存在あった。三波春夫や神田伯山、それに岡晴男なども舞台に上がったことがあり、「浦安」の小屋で手がなれば一人前といわれたというほどの演技場であった。常連客が多く、「耳がこえており」その上、「口が悪い」から、態度に直ぐ表れる。また、「浦安亭」は浦安以外に葛西や行徳にはこのような施設がなく、浦安の住民だけでなく周辺地域の人たちの集まる施設でもあったからだ。