1949(昭和24)年8月27日、マーカス島沖で発生した熱帯性低気圧が発達、台風となって本土に向け北上してきた。「キティ台風」と名付けられたこの台風が、8月31日に神奈川県茅ヶ崎付近に上陸、その後浦安に向けて直進してきた。
台風は午後9時頃最大となり、風速25メートルから30メートルの南ないし東南の暴風雨となって、浦安を襲い猛威をふるった。雨は滝のように降り、吹き付ける強風は瓦を吹き飛ばし、電線はちぎれて町は暗黒に包まれた。
台風が来ていた時、折悪しく満潮時にあたっていたため、「大正6年の津波」以来の最高潮位に達し、2メートルに及んだ波は上げ潮とともに高潮となり、沿岸一帯に押し寄せた。
堤防は14カ所、延長900メートルにわたって決壊、濁流は田畑を押し流し、人家を襲った。
台風は午後9時頃最大となり、風速25メートルから30メートルの南ないし東南の暴風雨となって、浦安を襲い猛威をふるった。雨は滝のように降り、吹き付ける強風は瓦を吹き飛ばし、電線はちぎれて町は暗黒に包まれた。
台風が来ていた時、折悪しく満潮時にあたっていたため、「大正6年の津波」以来の最高潮位に達し、2メートルに及んだ波は上げ潮とともに高潮となり、沿岸一帯に押し寄せた。
堤防は14カ所、延長900メートルにわたって決壊、濁流は田畑を押し流し、人家を襲った。
被災地区は全町に及んだが、特に被害の大きいのは堀江裏堀一帯と猫実東部で、住家や海苔製造場などが濁流にのまれ、倒壊し流されたものが多く惨憺たる光景であった。
この台風により、床上浸水2419戸、床下浸水501戸、住家の倒壊、一部破損は数百戸に及んだ。他に海苔製造場や物置が倒壊流出したほか,畳、寝具、家財道具に与えた被害は甚大であった。 台風通過後間もなく猫実405番地から出火、台風に続き火事騒ぎに町民は驚いたが、駆けつけた消防団員の腰まで水につかりながらの消火作業で鎮火した。 この頃、私は浦安中学校の1年生だった。夏休も終わり新学期を迎える直前の夜に、この台風の襲来を経験した。今も記憶に残ることについて記してみたい。 |
キティ台風で被害を受けた浦安小学校
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「堤防が危ない」という情報で、義兄夫婦は「つなみ」を考えて自宅の畳を上げ、家具などの上に寝具などともに積み上げた。また収穫したばかりの早生米(籾)を水から守る手立てをして待機したという。一方、私の生まれ育った「六件宿」の家も境川沿いにあるので、いつでも畳が上げられる態勢をとっていた。停電の中、私も一晩中警戒にあたった。このとき初めて知ったことだが、幸い我が家は,地盤の高い所にあったので、川から上がってきた水は、川寄りの便所のあるところまで、道路から上がってきた水は、角の街灯のところまでで止まり、床下浸水の被害も無かったのである。屋根は、その頃は一般的であったが、茅葺きであり特に被害がなかったし、雨風のおさまるにつけ、ほっと胸をなで下ろした。
ところが、義兄宅のある一帯は地盤が低く、濁流は床上1メートルを超える髙さまで押しよせ、台にしていたものが浮かされ、積み上げてあった畳や布団などが水浸しになってしまったのである。また、籾米などにも多くの被害をもたらした。
また、生業の稲作にも大きな打撃を受けた。殆どの水田は冠水し、刈り取り寸前の稲はことごとく倒伏し、長い間塩水に浸かっていたので殆ど「しいな」となり、収穫ゼロの農家が多く、義兄宅も同様だった。
漁業でも、近年にないこの台風のため、貝養殖場は大な被害を受けた。損害額はアサリ、ハマグリ、バカ貝など125万キログラム、925万円に達し、その上漁民は海苔製造場や海苔簀、海苔網、丸太、小割、台簀などを流失し、これらの資材を購入する資金もなく、海苔養殖に支障をきたした。
学校も、竣工したばかりの校舎の屋根瓦が飛び、床上1メートルの浸水の被害を受けて
いたので、新学期になってもしばらくは授業が再開出来なかった。そんな中、担任の二瀬先生が、社会科の小泉先生とともに、自宅に見舞いに来てくれたことを憶えている。
ところが、義兄宅のある一帯は地盤が低く、濁流は床上1メートルを超える髙さまで押しよせ、台にしていたものが浮かされ、積み上げてあった畳や布団などが水浸しになってしまったのである。また、籾米などにも多くの被害をもたらした。
また、生業の稲作にも大きな打撃を受けた。殆どの水田は冠水し、刈り取り寸前の稲はことごとく倒伏し、長い間塩水に浸かっていたので殆ど「しいな」となり、収穫ゼロの農家が多く、義兄宅も同様だった。
漁業でも、近年にないこの台風のため、貝養殖場は大な被害を受けた。損害額はアサリ、ハマグリ、バカ貝など125万キログラム、925万円に達し、その上漁民は海苔製造場や海苔簀、海苔網、丸太、小割、台簀などを流失し、これらの資材を購入する資金もなく、海苔養殖に支障をきたした。
学校も、竣工したばかりの校舎の屋根瓦が飛び、床上1メートルの浸水の被害を受けて
いたので、新学期になってもしばらくは授業が再開出来なかった。そんな中、担任の二瀬先生が、社会科の小泉先生とともに、自宅に見舞いに来てくれたことを憶えている。
決壊した堤防の応急復旧工事は、消防団員や農協役員によって行われたが、10月に入って国、県からの視察を経て本格的な復旧工事が行われることになった。
町は高潮による災害を二度と繰りかえさないように、国、県に対し、堅固な堤防を築造するよう再三陳情した結果、昭和25年より3カ年間の継続事業として実施することが決まった。ところが、このあと関西地方を襲ったジェーン台風の災害復旧工事を同時に実施する必要が生じたことから、浦安の堤防復旧予算は大幅に削減されてしまった。
町では昭和25年11月3日に、浦安劇場で「堤防完成促進町民大会」を開催するなど、各種団体はじめ全町民一致して関係当局に強く要望した結果、工事は当初の予定どおり実施されることになった。築堤工事は6カ年の歳月と3億6000万円の巨費をかけ、昭和30年に延長7000メートルに及ぶ堤防が完成した。堤防の高さは海岸筋AP5メートル、江戸川筋AP4.5メートルで、対岸の江戸川区葛西にも優るとも劣らぬ堤防だった。あわせて,観音開き式の境川の東西両水門が、昭和28年3月に竣工している。
しかしながら、浦安は昭和35年頃から急激に地盤が沈下し始め、3年間で24.3センチという驚くほどの沈下を示し、そのため江戸川筋の堤防に亀裂が生じ高潮がきたとき決壊する恐れが出てきた。また境川筋の護岸も沈下が激しく、満潮時にはしばしば越水し、住宅が浸水するようになったので、昭和40年1月から5カ年の継続事業として、総工費45億2000万円をかけ江戸川河口から篠崎水門に至る8180メートルの区間を施工することになった。このとき、それまで観音開きであった東西両水門が前後して近代的な上下開閉式に改修された。昭和41年度には、海岸堤防も逐次工事が行われ、昭和44年には現在のような堤防が完成した。新堤防は伊勢湾台風規模の台風を想定したもので、これにより浦安は永年の水魔から解放されることになった。
※損害額、工事額は被災時、及び施工時の金額。
町は高潮による災害を二度と繰りかえさないように、国、県に対し、堅固な堤防を築造するよう再三陳情した結果、昭和25年より3カ年間の継続事業として実施することが決まった。ところが、このあと関西地方を襲ったジェーン台風の災害復旧工事を同時に実施する必要が生じたことから、浦安の堤防復旧予算は大幅に削減されてしまった。
町では昭和25年11月3日に、浦安劇場で「堤防完成促進町民大会」を開催するなど、各種団体はじめ全町民一致して関係当局に強く要望した結果、工事は当初の予定どおり実施されることになった。築堤工事は6カ年の歳月と3億6000万円の巨費をかけ、昭和30年に延長7000メートルに及ぶ堤防が完成した。堤防の高さは海岸筋AP5メートル、江戸川筋AP4.5メートルで、対岸の江戸川区葛西にも優るとも劣らぬ堤防だった。あわせて,観音開き式の境川の東西両水門が、昭和28年3月に竣工している。
しかしながら、浦安は昭和35年頃から急激に地盤が沈下し始め、3年間で24.3センチという驚くほどの沈下を示し、そのため江戸川筋の堤防に亀裂が生じ高潮がきたとき決壊する恐れが出てきた。また境川筋の護岸も沈下が激しく、満潮時にはしばしば越水し、住宅が浸水するようになったので、昭和40年1月から5カ年の継続事業として、総工費45億2000万円をかけ江戸川河口から篠崎水門に至る8180メートルの区間を施工することになった。このとき、それまで観音開きであった東西両水門が前後して近代的な上下開閉式に改修された。昭和41年度には、海岸堤防も逐次工事が行われ、昭和44年には現在のような堤防が完成した。新堤防は伊勢湾台風規模の台風を想定したもので、これにより浦安は永年の水魔から解放されることになった。
※損害額、工事額は被災時、及び施工時の金額。
キティ台風のつめあと