ディズニー建設計画と開園
海面埋め立て地の土地利用計画の中での最重要課題は、どんな大規模遊園地を誘致するかであった。
皇居を基点とする都心からわずか15キロメートルの浦安は、首都圏整備法のグリーンベルト地帯に指定されている。工業地帯としての発展は論外で、埋め立て地の大半を住宅開発と、相応の緑地として利用しなくてはならなかったのである。三井不動産と京成電鉄等の出資による株式会社オリエンタルランドには取得した広大な土地にどのような遊園地を建設運営するかが課題となった。万博のような一時的なものではなく、継続的に浦安の地域経済の核となるような施設建設が求められた。
舞浜地区への大規模レジャーランド建設は、当初は、東洋一のその名もオリエンタルランドという名称の、単にテーマパークだけでない、大規模遊園地をメインにドーム球場やゴルフ場の建設が検討されていた。ディズニーランド建設計画は、昭和37(1962)年にオリエンタルランド社が非公式ではあるが米国のディズニーランド社に対して協力を要請したことに端を発する。
オリエンタルランド社は検討の結果、アメリカのディズニーランド誘致以外はないと判断し進出を要請、交渉に着手、昭和49(1974)年12月、両者は提携に合意した。
昭和52(1987)年2月には「東京ディズニーランド」と名称も決定、建設に向かって具体的交渉が始まった。
議会でもこの動きに対応、この年の9月定例議会において「東京ディズニーランド建設に関する特別委員会」の設置を議決。現地調査を含め継続夷狄に調査審議することになり、私は同委員会の副委員長に就任、議長の職にあった委員長を補佐して精力的に活動を開始した。審議がすすむにつれ、ディズニーランドの施設内容はもとより立地される地元自治体の対応、ディズニーランド建設によるメリット・デメリットを現地で調査確認する必要があるのでは、ということになった。特別委員会を組織する議員全員の海外視察には共産党議員らの反対運動もあったが、昭和53(1798)年2月議長を団長とする7名の議員で調査団をつくり(公費半額負担)、熊川町長と担当職員3名も同行して、アメリカに向かった。視察先はカリフォルニア州アナハイム市とフロリダ州オーランド市である。このころ、オリエンタルランド社の親会社である三井不動産首脳部には、ディズニーランド社の示す高いロイヤリティーや、施設のグレードアップなどのきびしい条件に、採算がとれるのか、目標の集客力が本当に確保できるのか、先行きの見通しへの不安から交渉の進展に腰の引けてきた感触があった。視察団は施設や誘致した自治体の状況等からディズニーランド社のドン・テイタム会長や幹部と会い、当時の川上千葉県知事の親書と共に、浦安町も積極的に誘致する意向のあることを伝えた。更に視察の主たる目的である誘致自治体の、関連産業、財政、公害問題などの行政全般を調査し、両市の市長や幹部とも会い、将来にわたる友好を約した。この動きは、躊躇していた三井不動産関係者にも大きなインパクトとなり、交渉はこの後大きく進展をみた。その年の12月、4年後の開園予定ということで日米両社は基本合意に達した。更に、ロイヤリティーの関係、建設資金の融資問題などの解決を待って、昭和54(1979)年4月30日にオリエンタルランド社とディズニーランド社間でようやく最終契約が締結され、建設に向かって大きく前進したのである。
建設工事はほぼ順調に進み、昭和56年10月には各アトラクションのショー・乗り物の据え付け開始、57年末に全ての工事を完了。58年1月からは試運転を開始した。そして58年4月のグランドオープンとなる。
昭和58(1983)年4月11日、この日は待望の東京ディズニーランドのオープンセレモニーがアメリカのディズニー・プロダクションの首脳部をはじめ内外の政財界関係者の列席の中、盛大に開催された。町職員・町議・市議を通じて大規模遊園地計画、ディズニーランド建設計画にたずさわってきた私には「いよいよ夢の実現」ということで感銘深いものがあったことは言うまでもない。あわせて、その前日は市制施行後初の県議会議員選挙の投票日。熊川市長はじめ与党会派の議員全員、他の要請で現職と事実上の一騎打ちという厳しい選挙戦を戦った審判の日であったのだ。結果は現職を破り県議初当選を果たすことができた。開園式典に招待され妻とともに参加したが、激しかった選挙戦の疲れと前日ほとんど眠っていないにもかかわらず、その日の空と同じように晴れ晴れとした感動にひたった思い出がある。翌12日、13日にはこれまでの市並びに市民の協力に感謝し、「浦安市民デイ」を催しオリエンタルランド社による浦安市民全員の招待があった。そしていよいよ4月15日、米国以外で初めての、世界で三番目のディズニーランドが開園した。
東京ディズニーランドの建設開園には、巨額の投資、高いロイヤリティなどで、マスコミや民間研究機関には、先行きを不安視していたところも多くあった。しかし、一年目の入場者数は目標であった1000万人上回る1300万人を数え、一年目にしてアメリカのディズニーランドの1150万人をも抜いた。その後も年間入場数は増加の一歩をたどり、平成7年度には年間入園者1,699万人を記録、同年度までにじつに1億7,000万人を超える人々が入園した。東京ディズニーランド建設計画は予想を超える「大成功」といえるが、地元浦安市にとってもその波及効果は大きいものがある。経済効果としては,当初から直接的には固定資産税と法人市民税が,間接的には雇用の場の確保、食料品・文具等の購入、建設工事の市内業者への一部発注などが予想された。結果として、予想をはるかに上回る大成功で、その収入は初年度1,000億円、平成4年度には1,500億円に達しその後も順調に伸び続け、市への納税額は一企業が地方自治体にもたらすものとしては、全国有数の額に達している。
また、東京ディズニーランドの成功により周辺に国際級のホテル群が立地し、市の税財のひとつとなったことも間接的経済効果といえよう。このほか、地下鉄東西線の駅舎改修工事、警察署の早期誘致の実現、ならびに公共公益施設整備への支援や、市民の雇用機会の創出も、大きな波及効果と考えられる。
ちなみに、東京ディズニーランドの経営母体であるオリエンタランド社の従業員数13000人(平成7年4月現在)のうち約12パーセントの1500人が浦安市民で占められる。
あわせて、浦安市が東京ディズニーランド開園以前とは比較にならないほど,全国的に知名度がアップし、イメージも大きく向上したことである。日本全国にとどまらず海外からも多くの入園者が訪れ、浦安市は国際観光都市としても脚光をあびることとなる。私はこのことも開園による大きな波及効果であると思っている。
開園後の動きとしては、平成5(1993)年3月にJR京葉線が全線開通し、舞浜駅が開業。平成6(1994)年6月には1億人目のゲスト来園。第2テーマパークとしての東京ディズニーシーが平成13(2001)年10月に着工した。平成15(2003)年7月イクスピアリオープン.平成16(2004)年3月にはディズニーリゾート(モノレール)が開通。そしてこの年9月にディズニーシーがグランドオープンした。
そして今も舞浜地区にとどまらず「ディズニーリゾート」は成長を続けている。
皇居を基点とする都心からわずか15キロメートルの浦安は、首都圏整備法のグリーンベルト地帯に指定されている。工業地帯としての発展は論外で、埋め立て地の大半を住宅開発と、相応の緑地として利用しなくてはならなかったのである。三井不動産と京成電鉄等の出資による株式会社オリエンタルランドには取得した広大な土地にどのような遊園地を建設運営するかが課題となった。万博のような一時的なものではなく、継続的に浦安の地域経済の核となるような施設建設が求められた。
舞浜地区への大規模レジャーランド建設は、当初は、東洋一のその名もオリエンタルランドという名称の、単にテーマパークだけでない、大規模遊園地をメインにドーム球場やゴルフ場の建設が検討されていた。ディズニーランド建設計画は、昭和37(1962)年にオリエンタルランド社が非公式ではあるが米国のディズニーランド社に対して協力を要請したことに端を発する。
オリエンタルランド社は検討の結果、アメリカのディズニーランド誘致以外はないと判断し進出を要請、交渉に着手、昭和49(1974)年12月、両者は提携に合意した。
昭和52(1987)年2月には「東京ディズニーランド」と名称も決定、建設に向かって具体的交渉が始まった。
議会でもこの動きに対応、この年の9月定例議会において「東京ディズニーランド建設に関する特別委員会」の設置を議決。現地調査を含め継続夷狄に調査審議することになり、私は同委員会の副委員長に就任、議長の職にあった委員長を補佐して精力的に活動を開始した。審議がすすむにつれ、ディズニーランドの施設内容はもとより立地される地元自治体の対応、ディズニーランド建設によるメリット・デメリットを現地で調査確認する必要があるのでは、ということになった。特別委員会を組織する議員全員の海外視察には共産党議員らの反対運動もあったが、昭和53(1798)年2月議長を団長とする7名の議員で調査団をつくり(公費半額負担)、熊川町長と担当職員3名も同行して、アメリカに向かった。視察先はカリフォルニア州アナハイム市とフロリダ州オーランド市である。このころ、オリエンタルランド社の親会社である三井不動産首脳部には、ディズニーランド社の示す高いロイヤリティーや、施設のグレードアップなどのきびしい条件に、採算がとれるのか、目標の集客力が本当に確保できるのか、先行きの見通しへの不安から交渉の進展に腰の引けてきた感触があった。視察団は施設や誘致した自治体の状況等からディズニーランド社のドン・テイタム会長や幹部と会い、当時の川上千葉県知事の親書と共に、浦安町も積極的に誘致する意向のあることを伝えた。更に視察の主たる目的である誘致自治体の、関連産業、財政、公害問題などの行政全般を調査し、両市の市長や幹部とも会い、将来にわたる友好を約した。この動きは、躊躇していた三井不動産関係者にも大きなインパクトとなり、交渉はこの後大きく進展をみた。その年の12月、4年後の開園予定ということで日米両社は基本合意に達した。更に、ロイヤリティーの関係、建設資金の融資問題などの解決を待って、昭和54(1979)年4月30日にオリエンタルランド社とディズニーランド社間でようやく最終契約が締結され、建設に向かって大きく前進したのである。
建設工事はほぼ順調に進み、昭和56年10月には各アトラクションのショー・乗り物の据え付け開始、57年末に全ての工事を完了。58年1月からは試運転を開始した。そして58年4月のグランドオープンとなる。
昭和58(1983)年4月11日、この日は待望の東京ディズニーランドのオープンセレモニーがアメリカのディズニー・プロダクションの首脳部をはじめ内外の政財界関係者の列席の中、盛大に開催された。町職員・町議・市議を通じて大規模遊園地計画、ディズニーランド建設計画にたずさわってきた私には「いよいよ夢の実現」ということで感銘深いものがあったことは言うまでもない。あわせて、その前日は市制施行後初の県議会議員選挙の投票日。熊川市長はじめ与党会派の議員全員、他の要請で現職と事実上の一騎打ちという厳しい選挙戦を戦った審判の日であったのだ。結果は現職を破り県議初当選を果たすことができた。開園式典に招待され妻とともに参加したが、激しかった選挙戦の疲れと前日ほとんど眠っていないにもかかわらず、その日の空と同じように晴れ晴れとした感動にひたった思い出がある。翌12日、13日にはこれまでの市並びに市民の協力に感謝し、「浦安市民デイ」を催しオリエンタルランド社による浦安市民全員の招待があった。そしていよいよ4月15日、米国以外で初めての、世界で三番目のディズニーランドが開園した。
東京ディズニーランドの建設開園には、巨額の投資、高いロイヤリティなどで、マスコミや民間研究機関には、先行きを不安視していたところも多くあった。しかし、一年目の入場者数は目標であった1000万人上回る1300万人を数え、一年目にしてアメリカのディズニーランドの1150万人をも抜いた。その後も年間入場数は増加の一歩をたどり、平成7年度には年間入園者1,699万人を記録、同年度までにじつに1億7,000万人を超える人々が入園した。東京ディズニーランド建設計画は予想を超える「大成功」といえるが、地元浦安市にとってもその波及効果は大きいものがある。経済効果としては,当初から直接的には固定資産税と法人市民税が,間接的には雇用の場の確保、食料品・文具等の購入、建設工事の市内業者への一部発注などが予想された。結果として、予想をはるかに上回る大成功で、その収入は初年度1,000億円、平成4年度には1,500億円に達しその後も順調に伸び続け、市への納税額は一企業が地方自治体にもたらすものとしては、全国有数の額に達している。
また、東京ディズニーランドの成功により周辺に国際級のホテル群が立地し、市の税財のひとつとなったことも間接的経済効果といえよう。このほか、地下鉄東西線の駅舎改修工事、警察署の早期誘致の実現、ならびに公共公益施設整備への支援や、市民の雇用機会の創出も、大きな波及効果と考えられる。
ちなみに、東京ディズニーランドの経営母体であるオリエンタランド社の従業員数13000人(平成7年4月現在)のうち約12パーセントの1500人が浦安市民で占められる。
あわせて、浦安市が東京ディズニーランド開園以前とは比較にならないほど,全国的に知名度がアップし、イメージも大きく向上したことである。日本全国にとどまらず海外からも多くの入園者が訪れ、浦安市は国際観光都市としても脚光をあびることとなる。私はこのことも開園による大きな波及効果であると思っている。
開園後の動きとしては、平成5(1993)年3月にJR京葉線が全線開通し、舞浜駅が開業。平成6(1994)年6月には1億人目のゲスト来園。第2テーマパークとしての東京ディズニーシーが平成13(2001)年10月に着工した。平成15(2003)年7月イクスピアリオープン.平成16(2004)年3月にはディズニーリゾート(モノレール)が開通。そしてこの年9月にディズニーシーがグランドオープンした。
そして今も舞浜地区にとどまらず「ディズニーリゾート」は成長を続けている。