埋め立てと宅地開発
浦安の海は、本州製紙事件を境に、年ごとに汚染の度合いを深め、漁獲高の減少から漁業で生計を立てる多くの町民は、その将来に不安を強く感じるようになっていた。そこで千葉県が進めている臨海工業地域造成のための海面の埋め立てについて、漁業補償のいかんによっては、漁業権の一部を放棄してもよいという気運が次第に高まってきた。
町としても、浦安町総合開発審議会を中心に、漁業は既に転換の時期に来ていると考え、その打開策として海面を埋め立て、ここに住宅と公害のない工場を誘致しようという計画を進めていた。 そして、町と両漁業協同組合代表者との間で話合いが進められた。結果、漁業者の意思を尊重し、充分な補償を条件に、漁業権の一部を放棄してもよいということで、話は急速に進展することになった。昭和37年3月2日、両漁業組合ではそれぞれ臨時総会を開催し、漁業権の一部放棄と海面埋立て賛成について決議した。これにより、千葉県では株式会社オリエンタルランドとの間に「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結した。株式会社オリエンタルランドは浦安開発を目的として、三井不動産と京成電鉄の共同出資により設立された会社である。この漁業権一部放棄の代償として、漁業組合員1,663名に補償金7億2,626万余円と補償用地16万6,025坪(547,882㎡)が支払われた。
海面埋め立て事業は、昭和39年秋から本格的な工事に入った。埋め立てに要する土砂は、埋め立て地沖合の共同漁業権区域から取ることになり、その補償として、2億8,700万円が漁民に支払われた。
漁業の町から、首都東京に隣接する住宅都市としての変革期を迎え、町では長期的視野にたった総合的な長期計画が必要と考え、昭和45年1月「浦安町総合開発計画」づくりに着手した。そして、策定委員会の素案をもとに昭和47年5月に総合開発審議会に諮問、審議会では3分科会もうけるなど慎重に審議、町長に答申した。昭和48年2月議会の議決を経て決定した。計画の内容は「緑あふれる海浜都市」をキャッチフレーズに、「住みよい住宅都市、調和のとれた産業構造の町、コントラストのある町、災害に強い町の」主要指標からなっている。なかでも東西線の開通もあって、急激な都市化をいかに受けとめるか、既成市街地と海面埋め立て地との一体化が大きな課題であった。
既成市街地(元町)の大半は、農地であった。猫実、当代島の耕地は東京湾、江戸川、境川に沿う堤防によって囲まれた区域で潅漑、排水は潮の干満に従い、圦樋を開閉して行っていた。ところが昭和35年頃から始まった地盤沈下により排水が困難となり地力が低下、作付不能で休耕するものや、蓮根に転作するものが多くなった。そのため、地区の農家は相談の上、耕地整備と区画整理を実施することとし、北部土地改良区を設立した。北部土地改良事業は、昭和38年度、昭和39年度の2ヵ年で85.47ヘクタールの耕地に、区画道路、排水路等をつくるべく開始された。
また、埋め立て地に通ずる主要道路として、耕地南寄りには千葉県開発局の築造による幅26メートル。延長1180メートルの開発道路が通ずることになった。工事にあたっては、幾多の問題も生じたが、組合員相互の和をもって、昭和42年3月に完成した。昭和44年には、東西線が区域内を南北に縦断することになったが、この用地買収にあたっては、北部土地改良区が組合員を代表して、帝都高速度交通営団(現メトロ)との交渉にあたり円満に解決した。
この東西線開通により、土地改良区内は市街化の傾向が強く、あわせて都市計画法の市街化区域の指定により,大きく様相も変わったこともあって、農家の生産意欲は減退し、農地の転用が日増しに増加して宅地化が進んだ。
堀江耕地は市街地の南側に位置し、その面積は約100ヘクタール、秋ともなれば黄金色の稲穂が波打つ良田であった。昭和35年頃から始まった地盤沈下により、堀江の清滝弁財天付近の地盤高は0.3ートルとなり、耕地一帯は見わたす限り水中に没し、コイやフナなどの絶好の棲息地になってしまい、自然排水は全く不可能となり、殆どの農地が耕作不能となった。そのため堀江地区の農地所有者は、北部地区にならい用排水施設を完備した土地改良事業を実施すべく、昭和40年6月に千葉県知事の認可を得て、「南部土地改良区」を設置した。初年度は、1億2,000万円の費用をかけて田畑44ヘクタールに、サンドポンプにより江戸川から土砂を高さ0.9メートルに吹上げ、二年度 に、1億3000万円の予算をもって土盛りした地域と市街地寄りの本田地域の区画整理を実施した。本工事と関連して、幅員22メートル、延長1,920メートルの開発道路(現在の大三角線)が地区内の主要道路として開通、堀江地区の開発を促進することになった。工事は順調に進捗し昭和44年末には完了、47年12月に換地処分登記を終え、事業の終了をみた。土地改良区では引き続き別途事業として、水道管の布設計画をたて昭和48年度から工事を着手した。このように、二つの土地改良事業は、海面埋め立て事業と地下鉄東西線の開通と相まって、事実上宅地の造成、住宅地開発の様相をもつことになった。
埋め立て地の土地利用は、第一期地区のA地区が住宅用地、B地区が住宅用地と一部準工業用地、C地区ではレジャーランド用地が主で、住宅用地、準工業用地となっている。第一期埋め立て全域に占める住宅用地の割合は38パーセントであり、その開発には三井不動産、京成電鉄、オリエンタルランド社、日本住宅公団が主で、その他民間デベロッパーによって進められた。準工業用地は、主として鉄鋼通りにある鉄鋼流通基地で、公害が発生しない企業立地を前提に誘致を考え、現在「浦安鉄鋼団地」として操業している。C地区のレジャーランド用地については、協定に基づき、約210ヘクタールの土地がオリエンタルランド社に引き渡された。この大規模なレジャーランド用地は、協定でプレイランド。ワールドバザール、ホテル群などから構成される総合レジャーランドとしての開発が計画された。
このうちのプレイランドやワールドバザールについては、米国のウオルト デイズニー・プロダクションズと業務提携し、昭和52年3月、名称が「東京ディズニーランド」と決定、開発面積 82.6ヘクタールの規模をもつ国際的なレジャーランドとして建設がすすめられ、昭和58年4月に開園した。
第二期地区は土地造成の目的を首都圏における住宅地の計画的供給を図ることとしたので、その大半が住宅用地とその関連施設用地である。土地改良事業による区画整理で、住宅地としての転用条件がある程度満たされたことと、鉄道・道路の交通機関の環境整備等もあって、既成市街地(元町)もこれらの区域を中心に著しい速さで宅地開発が進んだ。海面埋め立てによる新市街地の開発も計画を上回る早さで進み、かつての「青ベかの町」から首都近郊の住宅都市として大きく変貌することになる。
ちなみに、私が当時の浦安町役場に就職したのが、昭和34年6月。6年間の土木課勤務から昭和40年4月に新設された開発課の係長に任ぜられた。昭和37年に漁業権の一部を放棄、すでに第一期も海面埋め立て事業が開始されており、事業主体である千葉県開発局との連絡窓口としての業務、将来の宅地開発を想定した北部土地改良事業への側面協力、営団地下鉄5号線(現在の東京メトロ東西線)の延長計画にともなう用地交渉支援、都市計画決定の基礎調査など、広範囲にわたる仕事にたずさわった。そして待望の東西線の開通を一年後にひかえた昭和43年6月、浦安町役場を退職した。