市制施行
私たちの浦安は、明治22(1889)年4月に堀江、猫実、当代島の三村が合併し浦安村となり、明治42(1909)年9月には人口8,475人で町制が施行された。
町制七十有余年の間、三方水域に囲まれた浦安は、幾度となく台風による高潮に見舞われ、特に大正6(1917)年の大津波や昭和24(1949)年のキテイ台風では、全域にわたり大きな被害を被った。また、度々の大火や大正12(1923)の関東大震災に遭って住民の多くがその都度、貴重な財産を失い、さらに第二次世界大戦での度重なる空襲の中で住民一丸となって郷土防衛と困難な食糧事情に堪え忍びながら町を守り続けてきた。
昭和33(1958)年には、本州製紙江戸川工場より排出の汚水のため、魚貝類が大量に死滅するという未曾有の被害に見舞われて以来、漁獲量は減少の一途をたどり内湾漁業の将来が憂慮されるに至った。その結果、京葉臨海工業地帯造成の一環として、昭和37(1962)年漁業権の一部放棄、昭和46(1971)年の全面放棄によって1400ヘクタールの海面が埋め立てられた。このように、先人たちによって幾多の災難や困難な問題を克服し、市制施行を迎えるまでに至る「浦安」を築き上げてきたのだ。
地方自治法に定められた市になる要件は、①人口が直前の国勢調査で5万人以上であること、②中心市街地に全戸数の6割以上があること、③商工業その他都市的業態に従事する人が全人口の6割以上であること④条例で定める高校・図書館・その他の都市施設を具備していること、と定められていた。
浦安町の人口は昭和55(1980)年の国勢調査では優に5万人を超えると予想されていたし、新住民を中心に東葛飾郡浦安町という田舎くさいイメージから脱却して、市に昇格したいという願いは高まっていたので、56(1981)年4月の市制施行は、ほぼ既定のことであった。これらに鑑み、町は昭和54(1979)年4月に市制準備室を設置、市制特集号を発行して市制についての広報活動行うほか、1300人の無作為抽出による住民意識調査や、数回にわたる住民懇談会を開催するなど、市制への準備をすすめてきた。
千葉県との事務協議も、55年10月の現地調査を経て整い、自治省(現在の総務省)との内協議へと進み、56年1月には自治省による現地調査が行われ市制施行に異議ないとのの内示があった。この間、議会でも「市制施行準備特別委員会」を設置、先進地の視察をはじめ調査検討を重ねてきた。そして、昭和56年1月に開催された第一回臨時会において「浦安町を浦安市とする」議案を満場一致で可決した。
こうして昭和56(1981)年4月1日、千葉県で27番目の市として「浦安市」が誕生したのである。人口は6万5,700人を数えた。
市制施行後の動きについては、昭和58(1983)年には東京ディズニーランドがオープン、その後も周辺地区には大型リゾートホテルなどが建設されていった。
ニュータウン地区の大規模住宅開発も進み、昭和62(1987)年には、人口が10万人を突破した。昭和63(1988)年にはJR京葉線も開通し、新浦安駅、舞浜駅の周辺整備が進められた。平成13(2001)年9月には、東京ディズニーシーがオープン。
平成16(2004)年8月には、人口が15万人を超えた。
そして今年(2016)、4月に市制施行35周年を迎え、あわせて11階建ての新庁舎が竣工した。
現在(2016年8月)の人口は165、411人である。
町制七十有余年の間、三方水域に囲まれた浦安は、幾度となく台風による高潮に見舞われ、特に大正6(1917)年の大津波や昭和24(1949)年のキテイ台風では、全域にわたり大きな被害を被った。また、度々の大火や大正12(1923)の関東大震災に遭って住民の多くがその都度、貴重な財産を失い、さらに第二次世界大戦での度重なる空襲の中で住民一丸となって郷土防衛と困難な食糧事情に堪え忍びながら町を守り続けてきた。
昭和33(1958)年には、本州製紙江戸川工場より排出の汚水のため、魚貝類が大量に死滅するという未曾有の被害に見舞われて以来、漁獲量は減少の一途をたどり内湾漁業の将来が憂慮されるに至った。その結果、京葉臨海工業地帯造成の一環として、昭和37(1962)年漁業権の一部放棄、昭和46(1971)年の全面放棄によって1400ヘクタールの海面が埋め立てられた。このように、先人たちによって幾多の災難や困難な問題を克服し、市制施行を迎えるまでに至る「浦安」を築き上げてきたのだ。
地方自治法に定められた市になる要件は、①人口が直前の国勢調査で5万人以上であること、②中心市街地に全戸数の6割以上があること、③商工業その他都市的業態に従事する人が全人口の6割以上であること④条例で定める高校・図書館・その他の都市施設を具備していること、と定められていた。
浦安町の人口は昭和55(1980)年の国勢調査では優に5万人を超えると予想されていたし、新住民を中心に東葛飾郡浦安町という田舎くさいイメージから脱却して、市に昇格したいという願いは高まっていたので、56(1981)年4月の市制施行は、ほぼ既定のことであった。これらに鑑み、町は昭和54(1979)年4月に市制準備室を設置、市制特集号を発行して市制についての広報活動行うほか、1300人の無作為抽出による住民意識調査や、数回にわたる住民懇談会を開催するなど、市制への準備をすすめてきた。
千葉県との事務協議も、55年10月の現地調査を経て整い、自治省(現在の総務省)との内協議へと進み、56年1月には自治省による現地調査が行われ市制施行に異議ないとのの内示があった。この間、議会でも「市制施行準備特別委員会」を設置、先進地の視察をはじめ調査検討を重ねてきた。そして、昭和56年1月に開催された第一回臨時会において「浦安町を浦安市とする」議案を満場一致で可決した。
こうして昭和56(1981)年4月1日、千葉県で27番目の市として「浦安市」が誕生したのである。人口は6万5,700人を数えた。
市制施行後の動きについては、昭和58(1983)年には東京ディズニーランドがオープン、その後も周辺地区には大型リゾートホテルなどが建設されていった。
ニュータウン地区の大規模住宅開発も進み、昭和62(1987)年には、人口が10万人を突破した。昭和63(1988)年にはJR京葉線も開通し、新浦安駅、舞浜駅の周辺整備が進められた。平成13(2001)年9月には、東京ディズニーシーがオープン。
平成16(2004)年8月には、人口が15万人を超えた。
そして今年(2016)、4月に市制施行35周年を迎え、あわせて11階建ての新庁舎が竣工した。
現在(2016年8月)の人口は165、411人である。