東西線開通
浦安は長い間「陸の孤島」といわれたように、都心に近い位置にありながら一本の鉄道も通ってなく、路線バスのみの交通過疎地域であった。そのため、「地下鉄」を誘致することは、住民の長年の願望であった。
昭和37(1962)年以来、町は帝都高速度交通営団(今の東京メトロ、以下営団と略称)や関係機関に対し、東陽町・西船橋間の地下鉄七号線の延伸を、早期に実施するよう何度となく陳情を重ね、昭和40(1965)には町長を会長とする「地下鉄建設促進協議会」をつくり、その促進に力を入れてきた。都市計画の一環として地下鉄5号線と命名されていた東西線の東陽町・西船橋間の建設計画が決定されたのは、昭和39(1964)年三月であった。営団は40年12月に浦安町当代島に用地事務所を開設、用地交渉を精力的に行った。
昭和39(1964)年1月に設立、開始された浦安の「北部土地改良区」事業は、転機を迎えていた農業の振興よりも、ちかい将来の住宅地への転用を想定してすすめられていた。
路線の用地取得のほとんどが、この土地改良事業の対象区域だったことも地下鉄促進に拍車をかけた。昭和40年4月に、新しくできた開発課の計画係長に任ぜられた私は、この東西線建設促進を担当することにもなった。営団と土地改良、土地改良区域外の関係地主との交渉窓口になり、ときには用地交渉に同行して契約成立に側面から力を尽くした。
地下鉄建設にあわせて、課題となったのは駅前広場をつくることであった。営団側には駅前広場の計画はなく、用地は地元で確保し造成しなければならなかった。地下鉄が開通しても
広場がなくては、その後の発展も望めない。駅前広場なくしては都市化する浦安の将来に禍根を残すことになる。しかし、隣接の江戸川区葛西や、市川市南行徳・行徳駅などは。区画整理により公共用地として広場用地が確保されていたが、浦安駅においては「土地改良事業」のため広場用地は確保できず。また、駅の位置が決定したときにはすでに換地も終わっていた。この課題に当時の岡島多三郎町長は、持ち前の機知に富む政治力で果敢に取り組んだ。
路線の用地交渉が一段落したころ、岡島町長から私に特命が与えられた。それは、駅前広場をつくるために、浦安駅の位置が正式に発表会される前に、秘密裏に駅前広場計画を軌道にのせようということで、その実務担当を命ぜられたのだ。この計画は「駅前広場づくりに
協力してくれませんか。そうすれば駅をみなさんのお持ちの土地の近くに誘致します。ぜひ協力してください。皆さんの土地も活きます、皆さんのためになるよういろいろ話し合いをしながらすすめますから・・・」という岡島町長の発想にもとづく呼びかけから始まった。
役場側でこの計画を知っているのは、発案者の町長と,当時の開発課長熊川好生氏と私の三人、当然、地主等の関係者にも秘密厳守が課せられた。そのため交渉相手の地主もある程度の範囲にしぼられた。交渉相手が多くなればなるほど秘密は守れなくなる、という懸念があったからだと思う。ここでも岡島町長の決断が示された。結果、このプロジェクトは、秘密のうちに進行できたが、今でも不評をかっている「狭い駅前広場」の大きな要因になってしまったことは否めない。関係地主との協議は公に出来ないため、夜9時半以降、閉館後の公民館の和室で「密談」のかたちで行われた。ときには、議論が伯仲して深夜にわたることもあった。10回近い協議の結果、昭和41(1966)年2月には浦安町と関係者の間で駅前広場建設用地確保についての協定書が結ばれ大きく前進した。
この内容は、提供してもらう面積の5割は整備後代替地として還元、残りのうち3割は坪
5万円で買い取り、2割は無償提供してもらう。区画および代替地については、原案作成後、関係者と協議。小作者との話し合いには、円満解決のため、町側が仲介の労をとるなどの内容だった。秘密裏の作業はその後も続き、私事ににわたるいろいろなこともあったが、形だけでも「駅前広場」が出来、その実現のために力を尽くせたことは、貴重な思い出である。
東西線の延長工事は、軟弱地盤に悩まされたとはいえ、河川橋梁以外の土木工事の規模も小さく、しかも国鉄線のバイパス路線構想だったので、当時の国鉄の協力もあって、わずか三年で終わった。
昭和37(1962)年以来、町は帝都高速度交通営団(今の東京メトロ、以下営団と略称)や関係機関に対し、東陽町・西船橋間の地下鉄七号線の延伸を、早期に実施するよう何度となく陳情を重ね、昭和40(1965)には町長を会長とする「地下鉄建設促進協議会」をつくり、その促進に力を入れてきた。都市計画の一環として地下鉄5号線と命名されていた東西線の東陽町・西船橋間の建設計画が決定されたのは、昭和39(1964)年三月であった。営団は40年12月に浦安町当代島に用地事務所を開設、用地交渉を精力的に行った。
昭和39(1964)年1月に設立、開始された浦安の「北部土地改良区」事業は、転機を迎えていた農業の振興よりも、ちかい将来の住宅地への転用を想定してすすめられていた。
路線の用地取得のほとんどが、この土地改良事業の対象区域だったことも地下鉄促進に拍車をかけた。昭和40年4月に、新しくできた開発課の計画係長に任ぜられた私は、この東西線建設促進を担当することにもなった。営団と土地改良、土地改良区域外の関係地主との交渉窓口になり、ときには用地交渉に同行して契約成立に側面から力を尽くした。
地下鉄建設にあわせて、課題となったのは駅前広場をつくることであった。営団側には駅前広場の計画はなく、用地は地元で確保し造成しなければならなかった。地下鉄が開通しても
広場がなくては、その後の発展も望めない。駅前広場なくしては都市化する浦安の将来に禍根を残すことになる。しかし、隣接の江戸川区葛西や、市川市南行徳・行徳駅などは。区画整理により公共用地として広場用地が確保されていたが、浦安駅においては「土地改良事業」のため広場用地は確保できず。また、駅の位置が決定したときにはすでに換地も終わっていた。この課題に当時の岡島多三郎町長は、持ち前の機知に富む政治力で果敢に取り組んだ。
路線の用地交渉が一段落したころ、岡島町長から私に特命が与えられた。それは、駅前広場をつくるために、浦安駅の位置が正式に発表会される前に、秘密裏に駅前広場計画を軌道にのせようということで、その実務担当を命ぜられたのだ。この計画は「駅前広場づくりに
協力してくれませんか。そうすれば駅をみなさんのお持ちの土地の近くに誘致します。ぜひ協力してください。皆さんの土地も活きます、皆さんのためになるよういろいろ話し合いをしながらすすめますから・・・」という岡島町長の発想にもとづく呼びかけから始まった。
役場側でこの計画を知っているのは、発案者の町長と,当時の開発課長熊川好生氏と私の三人、当然、地主等の関係者にも秘密厳守が課せられた。そのため交渉相手の地主もある程度の範囲にしぼられた。交渉相手が多くなればなるほど秘密は守れなくなる、という懸念があったからだと思う。ここでも岡島町長の決断が示された。結果、このプロジェクトは、秘密のうちに進行できたが、今でも不評をかっている「狭い駅前広場」の大きな要因になってしまったことは否めない。関係地主との協議は公に出来ないため、夜9時半以降、閉館後の公民館の和室で「密談」のかたちで行われた。ときには、議論が伯仲して深夜にわたることもあった。10回近い協議の結果、昭和41(1966)年2月には浦安町と関係者の間で駅前広場建設用地確保についての協定書が結ばれ大きく前進した。
この内容は、提供してもらう面積の5割は整備後代替地として還元、残りのうち3割は坪
5万円で買い取り、2割は無償提供してもらう。区画および代替地については、原案作成後、関係者と協議。小作者との話し合いには、円満解決のため、町側が仲介の労をとるなどの内容だった。秘密裏の作業はその後も続き、私事ににわたるいろいろなこともあったが、形だけでも「駅前広場」が出来、その実現のために力を尽くせたことは、貴重な思い出である。
東西線の延長工事は、軟弱地盤に悩まされたとはいえ、河川橋梁以外の土木工事の規模も小さく、しかも国鉄線のバイパス路線構想だったので、当時の国鉄の協力もあって、わずか三年で終わった。
東西線の開通は長らく待ち望んでいた夢であったとともに、浦安にとって黒船到来を思わせる出来事で、開通後、町史始まって以来の激動期を迎えることになる。まさに新しい浦安の幕開けであり、陸の孤島から脱出し、漁業の町から首都圏のベットタウンへと町の様相は急速に変わっていた。すでに始まっていた周辺農地の宅地化には、より拍車がかかり、既成市街地も大きく拡散していった。町の人口は開通前の昭和40年10月にはわずか、1万8,463人であったのが、10年後には3万、2251人となった。
東西線開通時には、すでに駅前広場は整備され、乗降客の利便に応えていたが、年を経て
平成18(2006)一日乗降客数約7万3,000人を数えるほどとなると、「なんで、こんな狭い駅前広場をつくったのか」という利用者の声も多くなった。
駅前広場の一画には広場の建設に土地を提供するなどで協力された関係者への感謝の気持ちを後世に伝える記念碑がある。狭いという不満はあるにしろ、この広さの広場さえ、当時の岡島町長はじめ町関係者の熱意、関係地主、小作人の方々の大きな協力がなければつくれなかった。このうえは、一日も早い駅前改造を期待して止まない。
東西線開通時には、すでに駅前広場は整備され、乗降客の利便に応えていたが、年を経て
平成18(2006)一日乗降客数約7万3,000人を数えるほどとなると、「なんで、こんな狭い駅前広場をつくったのか」という利用者の声も多くなった。
駅前広場の一画には広場の建設に土地を提供するなどで協力された関係者への感謝の気持ちを後世に伝える記念碑がある。狭いという不満はあるにしろ、この広さの広場さえ、当時の岡島町長はじめ町関係者の熱意、関係地主、小作人の方々の大きな協力がなければつくれなかった。このうえは、一日も早い駅前改造を期待して止まない。