豊穣の海
浦安は東京内湾の奥、江戸川(現在は旧江戸川)河口に位置し、遠浅の海を漁場として
種々の魚類に恵まれ、また、貝や海藻類の発育に適していた。この地理的条件を活かし、住民は古くから魚介類や海藻類を獲って生活を立ててきた。
浦安の主な産業であった漁業が盛んになったのは、江戸時代の前期ではないかといわれている。それ以前は、塩焼きや田畑を耕すかたわら、地先海面の小魚を落とし網で獲る小規模なものであったという。1590年(天正18年)徳川家康の入府とともに、静岡や和歌山から網を使って大量に魚を獲る漁法をもつ漁師が移り住んできた。これにより、大消費地「江戸」の台所の一端を賄う漁村として、次第に発展していったと考えられる。
浦安の漁業の中心は、なんと言っても海苔と貝類の養殖である。1800年代半ばには、木更津から川崎にかけての遠浅の海で、ヒビ(木や竹の枝に胞子を植え付け、規則的に並べたもの)を使った海苔養殖が行われるようになり、浦安でも「海苔」が主要な水産物となっていく。浦安の貝の養殖の始まりは、1887年(明治20年)、猫実の田中徳次郎が県の委託を受けて稚貝の養殖に取り組んだことからとされている。昭和に入ると、品質の良い海苔の生産が全体の70パーセントを占め、アサリ、ハマグリの貝類がこれに続き、次に魚類となっているが、全体として、浦安の漁業は内湾屈指の漁獲高を誇るほどになった。
浦安町漁業協同組合(以下、組合)は、戦前の浦安町漁業会が昭和23(1948)年の水産協同組合法で改組されたもので、翌年9月に認可された。私が、この組合の職員として働いていたのは、昭和27年から33年までの5年間である。当時の組合は全所帯数の半数以上の加入する内湾一の規模を誇る大きな組合で、組合員数は1,550人を超え、貝の生産高2億430万円、海苔の生産高は年によって6000万円から2億4000万円と大きく変動するものの常に全国トップクラスであった。他に張網、打瀬網、アグリ網などの漁獲高も常に5000万円を超えていた。これらは、現在の価格に換算すると、推定80億円から多いときは150億円になるだろう。
関連して、当時操業していた漁船の状況について述べてみたい。ちなみに、私は漁船登録と漁業許可の事務を担当していた。昭和31(1956)年7月の統計では、動力船が300艘、和船と呼ばれた無動力船が120艘、浦安では「べか舟」と呼ばれていた0.5トン未満の小舟が1,680艘あったと記録されている。町を東西に横断する境川、当代島の船入川の川岸はこれらの船で埋めつくされていた。5トン以上の船舶やアグリ漁に使う漁船、主に東京湾対岸に貝や、種付けのために運ばれた海苔網などを運ぶ大型船などの多くは、江戸川(現在の旧江戸川)の川岸に係留されていた。
県の許可を得て操業する許可漁業も同じ昭和31年の統計によれば、張網167,打瀬網536,アグリ網44,小網484などとある。
主な漁獲物は、張網ではアミジャコ、打瀬網ではシバエビ、クルマエビ、ウナギ、ハゼなど、アグリ網ではスズキ、イワシ、コハダなど、小網ではカレイ、キス、ジャコ、クロダイ、カニ,エビ類などである。他にスズキを獲るスズキ網、ブリ、サワラ、ウナギ、アカエなど
を獲る縄船も操業していた。
このように「豊饒の海」であった浦安の海も、昭和30年代に入って工場排水や生活汚水によって漁場の汚染が次第に目立つようになった。そうした中起こった、昭和33年(1962)年4月の本州製紙江戸川工場汚水放流事件以降、京葉工業地帯造成に伴う海面埋め立てなどにより漁場環境は悪化し、水産物は年々減少の一途をたどった。
そのため、漁業従事者は次第に漁業の将来に不安をもつようになり、ついに昭和37年に漁業権が一部放棄され、昭和46(1971)年には全面放棄をするに至った。