陸の孤島と東京
浦安は東京都心からわずか15kmという位置にありながら、長い間、「陸の孤島」と言われてきた。
それには地形的な宿命もあったと思う。北側に隣接する旧南行徳、行徳(現在は市川市南部)を含めると、海と川に囲まれた文字通り「島」なのだから。浦安と大川を隔てた東京都江戸川区葛西とは、昔から交流があり、婚姻関係など縁が深い。ちなみに私の亡くなった母も葛西の雷というところから、浦安に嫁いできた。
昭和15年(1940)に,の工事中の浦安橋が完成、待望の開通をみた。この橋が架かるまでの葛西方面への交通は、葛西村の長島と浦安の蒸気河岸とを結ぶ水幅200mの「浦安の渡し」かあった。
他に、堀江の渡し、当代島と対岸の新川を結ぶ「当代島の渡し」があったそうだ。
渡し舟は小さな平舟で、ゆっくりと大川を横切り、客のおしゃべりと一緒に,自転車や荷物を運んでいたという。
蒸気河岸は、この浦安橋の架かった周辺で、「青べか物語」の船宿千本(吉野屋)などがある一帯をさす。
浦安から東京都心への交通機関は,なんと言ってもポンポン蒸気の愛称で親しまれた蒸気船で、その発着場所が蒸気河岸。「明治16年、「通運丸」という蒸気船が深川高橋から行徳新河岸までの定期便を就航させ、浦安にも明治27年から寄港するようになり、大いに賑わった」という記録がある。また、浦安付近で見かけられたのは、「第18通運丸」で、長さ63尺、幅9.8尺、14トン、16馬力、時速3里の船だった。外輪蒸気船は喫水が浅く平底の船で、江戸川や利根川の浅瀬を自由に航行でき、発動機船と違って振動も少なく乗り心地はきわめて良かったという。高橋から浦安への便は、一日11往復、朝は5時頃から出船し、通船(通運丸)は30分おき、葛飾丸は20おきに運航され、高橋までの所要時間は約1時間。浦安からは行商人、通勤、通学、行楽の重要な足であった。
通船は昭和19年まで運航していたが、乗り合いバスの発達で利用客が激減したため、廃止。あとは蒸気河岸の名前だけが残った。
私も子どもの頃に、海苔の行商にいく姉に手をひかれ、ポンポン蒸気に乗って高橋まで行った、かすかな思い出がある。(統制で海苔の行商が禁じられていた頃、親子づれと思わせるため)また、高橋の発着場の近くにあった「伊せ喜」というドジョウ料理屋には、浦安からこの船便で多くの人が通ったという話を聞いている。
バスの便が出来たのは、大正10年(1921)に初代の行徳橋が完成し、葛飾乗合自動車((株)による浦安―
八幡間9.5km間の葛飾バスの運行が開始されたときであった。葛飾バスは、昭和17年2月に京成電気軌道(株)に吸収され、京成バスと名を変えて同区間を運行するようになった。この線の途中、相之川から徒歩で今井橋を渡り、今井から城東電車または乗合バスで,錦糸町その他の都心に通ずる線を利用した。
浦安、八幡間の乗合バスより少しおくれて、浦安から今井橋を通り、小松川までの間に葛飾バスが開通し、東京との交通は一段と便利になった。また昭和17年(1942)2月より、浦安橋西詰め(江戸川区葛西)から洲崎と錦糸町に、東京市営バスが開通した。戦後になって、国電総武線に結ぶバス路線としては、都バスの新小岩行き、錦糸町行きが、千葉方面の接続としては京成バスの本八幡行きが、町民の大事な足となった。
浦安が「陸の孤島」と言われる最大の由縁は、なんと言っても昭和44年(1969)の東西線開通まで「鉄道路線が無かった」ことだ。それは、初めての鉄道「営団地下鉄5号線」(現在の東西線)の開通前後の浦安の変貌を見れば,疑う余地はない。このあと、JR京葉線が,昭和63年(1988)12月に開通し、浦安は都心に20分足らずでアクセス出来る、大変交通の便の良いところとして脚光を浴びるようになった。
今や、「陸の孤島」は遠い、遠い昔話のように思われてならない。。
私も子どもの頃に、海苔の行商にいく姉に手をひかれ、ポンポン蒸気に乗って高橋まで行った、かすかな思い出がある。(統制で海苔の行商が禁じられていた頃、親子づれと思わせるため)また、高橋の発着場の近くにあった「伊せ喜」というドジョウ料理屋には、浦安からこの船便で多くの人が通ったという話を聞いている。
バスの便が出来たのは、大正10年(1921)に初代の行徳橋が完成し、葛飾乗合自動車((株)による浦安―
八幡間9.5km間の葛飾バスの運行が開始されたときであった。葛飾バスは、昭和17年2月に京成電気軌道(株)に吸収され、京成バスと名を変えて同区間を運行するようになった。この線の途中、相之川から徒歩で今井橋を渡り、今井から城東電車または乗合バスで,錦糸町その他の都心に通ずる線を利用した。
浦安、八幡間の乗合バスより少しおくれて、浦安から今井橋を通り、小松川までの間に葛飾バスが開通し、東京との交通は一段と便利になった。また昭和17年(1942)2月より、浦安橋西詰め(江戸川区葛西)から洲崎と錦糸町に、東京市営バスが開通した。戦後になって、国電総武線に結ぶバス路線としては、都バスの新小岩行き、錦糸町行きが、千葉方面の接続としては京成バスの本八幡行きが、町民の大事な足となった。
浦安が「陸の孤島」と言われる最大の由縁は、なんと言っても昭和44年(1969)の東西線開通まで「鉄道路線が無かった」ことだ。それは、初めての鉄道「営団地下鉄5号線」(現在の東西線)の開通前後の浦安の変貌を見れば,疑う余地はない。このあと、JR京葉線が,昭和63年(1988)12月に開通し、浦安は都心に20分足らずでアクセス出来る、大変交通の便の良いところとして脚光を浴びるようになった。
今や、「陸の孤島」は遠い、遠い昔話のように思われてならない。。