江戸前と海
浦安に人が住みついたのは、今から850年をさかのぼる鎌倉時代の初めといわれているが、その頃は 海辺で塩を焼いたり、魚や貝を獲ったりの,原始的でのんびりした生活をしていたらしい。 浦安に限らないが、江戸時代より前の関東の漁業は、比較的幼稚な漁法で行われており、貝とりも漁船を使わない「岡っ掘り」であった。
本格的に発達するのは天正18年(1590)の徳川家康の江戸入府以来のことだといわれている。家康の積極的な都市建設で、江戸の人口は急増し、蛋白源である魚類の需要も増大したことにより、新しい漁法が関西から佃島に移住してきた漁師を中心に盛んになっていった。
佃島(中央区)は、隅田川の河口にあって、江戸時代には佃島の先は房州まで海であった。
江戸前についてはいろいろな説があるが、「東京湾水土記」の著者高橋在久氏が、漁撈習俗調査で浦安の長老醍醐峰次郎氏から聞いたという「東は中川の延長のミオと、西は品川宿からお台場の線を連ねた北側の海、を代々江戸前と呼んだ」という、この辺を基点に考えてみたい。また、今の内湾一帯ともいうべき「江戸日本橋の魚河岸において、集まり散ずる魚のとれる広い海域」をさして江戸前という説もある。魚河岸といえば、浦安とは大変縁の深い存在であることは周知のとおりである。
「浦安町史」には、堀江村と猫実村に関する記載の中に、江戸が大都会となるにつれ、本村は江戸に近接し、地の利を占めることから一割船を使用し、魚貝類を江戸に行商して利益を得、自村でとれる魚貝類だけでは足りないので、買出し船で湾内各地から買い付け、江戸で販売したとある。
漁業は鵜縄が最も盛んで貝まき、小網なども多く行われた。猫実村では、イワシ、コハダなどの漁獲を目的とする六人網、そのほか縄船など大網、小網さまざまの漁撈が、江戸時代から発達していた様子がうかがえる。当代島村もほぼ同様だが、堀江、猫実に比べ,地形的に漁業よりも農業が盛んであったという。
これらの記載からも、浦安の海が、文字通り江戸の前でとれた活きのいい魚貝類のの供給地として、その始まりから関わっていたといえる。これらから、浦安の海は「江戸前」の海といっても過言でない。
魚河岸は当初幕府に納められた魚類の残余を、市中一般に販売したことに始まる。
その後、江戸の繁栄策として郷藩三河の出身者に魚類販売の利権を与え、日本橋北詰から荒布橋に至る河岸一帯の市場に設けて、各地から入荷する魚貝類のうちの優れたものを、すべて公儀御用としてこの市場で扱わせた。そのため、河岸の隆昌は日を追って盛んになり,日本橋界隈は魚貝専門の店のみでなく関連する店などで大商店街が形成されていった。日本橋にあった「魚河岸」は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した。
その後、震災後の復興計画で整備されていた築地界隈に移転、昭和10年(1935)に開業、今日に至っている。
浦安に人が住みついたのは、今から850年をさかのぼる鎌倉時代の初めといわれているが、その頃は 海辺で塩を焼いたり、魚や貝を獲ったりの,原始的でのんびりした生活をしていたらしい。 浦安に限らないが、江戸時代より前の関東の漁業は、比較的幼稚な漁法で行われており、貝とりも漁船を使わない「岡っ掘り」であった。
本格的に発達するのは天正18年(1590)の徳川家康の江戸入府以来のことだといわれている。家康の積極的な都市建設で、江戸の人口は急増し、蛋白源である魚類の需要も増大したことにより、新しい漁法が関西から佃島に移住してきた漁師を中心に盛んになっていった。
佃島(中央区)は、隅田川の河口にあって、江戸時代には佃島の先は房州まで海であった。
江戸前についてはいろいろな説があるが、「東京湾水土記」の著者高橋在久氏が、漁撈習俗調査で浦安の長老醍醐峰次郎氏から聞いたという「東は中川の延長のミオと、西は品川宿からお台場の線を連ねた北側の海、を代々江戸前と呼んだ」という、この辺を基点に考えてみたい。また、今の内湾一帯ともいうべき「江戸日本橋の魚河岸において、集まり散ずる魚のとれる広い海域」をさして江戸前という説もある。魚河岸といえば、浦安とは大変縁の深い存在であることは周知のとおりである。
「浦安町史」には、堀江村と猫実村に関する記載の中に、江戸が大都会となるにつれ、本村は江戸に近接し、地の利を占めることから一割船を使用し、魚貝類を江戸に行商して利益を得、自村でとれる魚貝類だけでは足りないので、買出し船で湾内各地から買い付け、江戸で販売したとある。
漁業は鵜縄が最も盛んで貝まき、小網なども多く行われた。猫実村では、イワシ、コハダなどの漁獲を目的とする六人網、そのほか縄船など大網、小網さまざまの漁撈が、江戸時代から発達していた様子がうかがえる。当代島村もほぼ同様だが、堀江、猫実に比べ,地形的に漁業よりも農業が盛んであったという。
これらの記載からも、浦安の海が、文字通り江戸の前でとれた活きのいい魚貝類のの供給地として、その始まりから関わっていたといえる。これらから、浦安の海は「江戸前」の海といっても過言でない。
魚河岸は当初幕府に納められた魚類の残余を、市中一般に販売したことに始まる。
その後、江戸の繁栄策として郷藩三河の出身者に魚類販売の利権を与え、日本橋北詰から荒布橋に至る河岸一帯の市場に設けて、各地から入荷する魚貝類のうちの優れたものを、すべて公儀御用としてこの市場で扱わせた。そのため、河岸の隆昌は日を追って盛んになり,日本橋界隈は魚貝専門の店のみでなく関連する店などで大商店街が形成されていった。日本橋にあった「魚河岸」は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した。
その後、震災後の復興計画で整備されていた築地界隈に移転、昭和10年(1935)に開業、今日に至っている。
日本橋魚市場
YAHOO百科辞典より転載
YAHOO百科辞典より転載