山本周五郎 略歴
1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[1]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[2]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。[3])[4]。本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[5]。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[6]。
1928年(昭和3年) 25歳?
千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。10月 - 勤務不良により日本魂社から解雇される。1929年(昭和4年)東京虎ノ門に転居。
1930年(昭和5年)
11月 - 宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護婦・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。1931年(昭和6年)東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった[10]。1932年(昭和7年)『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた[12]。1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった[13]。
博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった[14]。1942年(昭和17年)39歳
『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」*「梅咲きぬ」*「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている[15]。1943年(昭和18年)40歳
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[16]。[17]。[18]。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]。1945年(昭和20年)
5月4日 - 膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。1946年(昭和21年)
自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。1948年(昭和23年)
春 - 旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。
1959年(昭和34年)『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
1961年(昭和36年)読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
山本周五郎が住んでいたところ(主として青べか日記より)
○ 老婆が一人だけで 住んでいた最初の下宿 *「評論 山本周五郎」尾崎秀雄著
○「柳の家に移る」 昭和3年9月30日 新居は川に面し、葛西と妙見島を見晴らす。また川の下流大三角のあたりまでも見える。新居は大変に居心地が佳い。二階家*「評論 山本周五郎」尾崎秀雄著 ○ 「船宿葛西の二階にて」 昭和3年11月1日 余は居を移した。船宿(江戸川に面した船宿吉野屋。主を吉野仁助といった)今度は全く独りだ、落ち着いてしごとが出来るだろうと思う。 ○「茫屋にて」 昭和4年2月7日 予は浦安に居着くことになった。藁葺屋根の古い朽ちかかった茫屋である。2坪の広い土間と4坪半一間の家である。予は炊事道具を揃え玄米を買った。自ら炊ぐ積もりである。 ○「土堤の家にて」 昭和4年5月16日 昨日土堤の家へ引移った。明るくて風通しの良い家だ。心は未だ落ち着かない。(浦安橋を渡ったすぐすぐ左側の土堤下にある二階家で、そのあたりでは「近七さんの家」とよばれていたらしい。「評論 山本周五郎」尾崎秀雄著) |