浦安のはじまり
浦安の歴史は、比較的新しい。私たちのまちが「浦安」という形で誕生したのは、明治22年(1879)
4月の町村制の施行により、堀江村、猫実村、当代島村の三村が合併し「浦安村」となったのが始まり。
それでは、この浦安に人が住み、集落を形成したのはいつ頃であろうか。確たる史料はない。
「浦安町史」等の資料によれば、「本町は保元2年(1157)には、既に部落が形成されており、住民は少ないものの、塩を焼き、魚貝類をとるかたわら田畑を耕し、生業としていたという」。
これは、猫実の豊受神社がその年に創建されたというのが、最も古い史実であるからだ。ところが、東京湾に突出した低地帯のため、津波の災害に遭うことが多く、住民はたびたび離散し、いつまでも寂しい漁村であった。
徳川家康が幕府を江戸に開いてその直轄地になってからは、代官の支配を受けるようになり、下総国行徳領堀江村、猫実村、当代島村と称した。
3ヶ村は江戸に近接しその地の利をえて、江戸の隆盛とともに魚貝を江戸に供給して生計をたてるものが多く、戸口もようやく増加してきた。
この頃から堤防を築き、あるいは萱生地を拓いて新田をつくり、漁業、農業ともおいおい発達してきた。そうして、次第に開発前(昭和40年以前)の堀江、猫実、当代島の三部落を形づくるに至った。
浦安の歴史は、比較的新しい。私たちのまちが「浦安」という形で誕生したのは、明治22年(1879)
4月の町村制の施行により、堀江村、猫実村、当代島村の三村が合併し「浦安村」となったのが始まり。
それでは、この浦安に人が住み、集落を形成したのはいつ頃であろうか。確たる史料はない。
「浦安町史」等の資料によれば、「本町は保元2年(1157)には、既に部落が形成されており、住民は少ないものの、塩を焼き、魚貝類をとるかたわら田畑を耕し、生業としていたという」。
これは、猫実の豊受神社がその年に創建されたというのが、最も古い史実であるからだ。ところが、東京湾に突出した低地帯のため、津波の災害に遭うことが多く、住民はたびたび離散し、いつまでも寂しい漁村であった。
徳川家康が幕府を江戸に開いてその直轄地になってからは、代官の支配を受けるようになり、下総国行徳領堀江村、猫実村、当代島村と称した。
3ヶ村は江戸に近接しその地の利をえて、江戸の隆盛とともに魚貝を江戸に供給して生計をたてるものが多く、戸口もようやく増加してきた。
この頃から堤防を築き、あるいは萱生地を拓いて新田をつくり、漁業、農業ともおいおい発達してきた。そうして、次第に開発前(昭和40年以前)の堀江、猫実、当代島の三部落を形づくるに至った。
ここに、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(安藤広重)の画いた「名所江戸百景」(119景)の中にある「堀江、ねこざね」と題する絵がある。
なんとものどかな風景で、今から150年ほど前の浦安はこのような寒村であったのかと、大変興味深い。 この絵の中央を流れるのが、旧江戸川の河口付近から分岐した境川で、漁船が点々と浮かんでいる。境川を真ん中にして左側の漁村が堀江、右側が猫実。中央右端に見える小さな神社が豊受神社である。 3ヶ村が合併、新しい村名を「浦安村」と名付けたのは、初代村長の新井甚左衛門といわれている。堀江村の村長だった新井甚左衛門は、蘆村という雅号をもつほどの文化人で、「浦、つまり漁村が安泰である事を祈ってつけたとか、日本の古来からの美称、浦安の国から名付けたとも言われている。 合併時の戸数は1040戸、人口は5946人であった。 浦安村創設以来、順調な歩みを続け、明治42年(1899)に戸数1580戸、人口8475人に達したので、同年9月1日から町制を施行し浦安町となった。 |