本州製紙汚水事件
昭和33年、「豊饒の海」をもち、人情味あふれる平和な漁師町浦安を、根底から揺るがす大事件が発生した。この年の4月7日、江戸川の水は突然どす黒く濁り、浦安の沿岸から葛西沖一帯にかけて海水が変色していた。魚は白い腹を上にむけて浮き、貝は口をあけたまま死滅するという事態が発生した。驚いた漁民たちは、漁業協同組合にこれを報告、直ちに調査するよう求めた。
組合が調べたところ、この黒い水は江戸川区東篠崎にある本州製紙江戸川工場から放流されていることがわかった。本州製紙では事件の前年末に都の許可を得て、原木の「ヤニ」を取るため中性硫酸アンモニュームを使って処理する「セミケミカル・ドラムバーカー」を新設していた。都では、魚貝類に被害を与えることが予想されたので、許可の条件として「操業するときは、直接廃液を江戸川に放流しないよう沈殿池を設けるよう」指示したが、会社側は「問題ない」と答え、これに応じなかった。
漁業組合では、このまま放置すれば魚貝類は死滅し、海苔養殖にも甚大な影響が出て、死活問題であると立ちあがった。組合側は5月17日、漁場で会社側と合同で調査を行い被害状況の確認をした。この調査実施にもとづき組合は悪水放流の中止を求めたが、会社側は調査結果をまつと応じなかった。このあと、都と千葉県に対して「合同調査」をし、早急に放流を止めさせるよう働きかけるとともに、浦安漁協、浦安第一漁協をはじめ、南行徳、行徳葛西、城東、深川、荒川各浦の漁協組合は、個々に中止を求め会社側と折衝した。
これに対し、会社側は誠意を示さず、依然として悪水を流し続けた。
5月24日午前10時頃7カ浦の漁協組合員約300名は、らちのあかない工場側に対して集団で抗議するため、漁船、自動車に分乗、江戸川工場に集合した。ところが、工場からは江戸川に向かって悪水がとうとうと放流されていた。これを見て激怒した漁民は工場の窓ガラス数10枚を破り、2カ所のマンホールにれんがなどを投げ込み、流れ出す悪水を止めてしまった。このあと、午前10時40分から会議室において、会社側代表数名と、被害者代表として、浦安町長、助役、7か浦の各漁協組合長との間で交渉が行われた。
会社側は、「①アユには害があっても他の魚には害がないと思った。②使用する薬品は悪いとはわかっているが,河川水と混合するので実害はないと思った。③新機械は昨年12月に完成し、本格的運転による放水は4月7日からである。④被害補償金を出すので、引き続き操業させてほしい」ということだった。これに対し漁民代表から「運転中の新機械による悪水は直ちに止めること。旧機械より出ている白濁水については、一日も早く無害になるよう完全な設備を施すこと。補償については重役と相談して決めること」の3項目の解決案を提示して散会しようとしたところ、小松川警察署長から各代表に注意事項があるとの申し入れがあった。しかし、ちょうどそのとき漁民が騒ぎ出したので、署長と浦安町長との間で話が交わされただけで散会した。5月28日午後3時40分から江戸川工場会議室で2回目の交渉が行われた。冒頭、会社側から去る24日の漁民の暴行について激しい非難があった。漁民代表は、あれほど注意したのに悪水を放流したからやったことで会社側に責任があると応酬した。2回目の会議でも、会社側の対応は漁民代表の要求とは対立したまま解決点を見出すことは出来ず、物別れに終わった。5月29日にも交渉が行われたが経営上明日からでも操業させてほしいという工場側の基本的な姿勢と、新機械使っての悪水の放流は死活問題に繋がるもので、絶対に承服出来ないという漁民側の主張で、結論に至らず決裂してしまった。この会議終了後、荒川・深川・葛西・城東各浦の漁協組合長は東京都庁に赴き、ドラムバーカーによる操業を、即時停止させるよう陳情した。
翌5月30日、浦安・浦安第一両漁協の代表者は千葉県庁において、副知事と水産課長に面接し善処するよう求めたところ、本州製紙の森田専務と勤労課長代理が来庁し「東京都側の漁民は、新機械を使用すること、第三者の調査に基づき漁業補償を行うことについて諒解したので、千葉県においても、東京都側の漁民にならうよう尽力してほしい」という申し入れがあったということだった。ところが、この話は会社側がねつ造したものであることが後日明らかになった。
昭和33年、「豊饒の海」をもち、人情味あふれる平和な漁師町浦安を、根底から揺るがす大事件が発生した。この年の4月7日、江戸川の水は突然どす黒く濁り、浦安の沿岸から葛西沖一帯にかけて海水が変色していた。魚は白い腹を上にむけて浮き、貝は口をあけたまま死滅するという事態が発生した。驚いた漁民たちは、漁業協同組合にこれを報告、直ちに調査するよう求めた。
組合が調べたところ、この黒い水は江戸川区東篠崎にある本州製紙江戸川工場から放流されていることがわかった。本州製紙では事件の前年末に都の許可を得て、原木の「ヤニ」を取るため中性硫酸アンモニュームを使って処理する「セミケミカル・ドラムバーカー」を新設していた。都では、魚貝類に被害を与えることが予想されたので、許可の条件として「操業するときは、直接廃液を江戸川に放流しないよう沈殿池を設けるよう」指示したが、会社側は「問題ない」と答え、これに応じなかった。
漁業組合では、このまま放置すれば魚貝類は死滅し、海苔養殖にも甚大な影響が出て、死活問題であると立ちあがった。組合側は5月17日、漁場で会社側と合同で調査を行い被害状況の確認をした。この調査実施にもとづき組合は悪水放流の中止を求めたが、会社側は調査結果をまつと応じなかった。このあと、都と千葉県に対して「合同調査」をし、早急に放流を止めさせるよう働きかけるとともに、浦安漁協、浦安第一漁協をはじめ、南行徳、行徳葛西、城東、深川、荒川各浦の漁協組合は、個々に中止を求め会社側と折衝した。
これに対し、会社側は誠意を示さず、依然として悪水を流し続けた。
5月24日午前10時頃7カ浦の漁協組合員約300名は、らちのあかない工場側に対して集団で抗議するため、漁船、自動車に分乗、江戸川工場に集合した。ところが、工場からは江戸川に向かって悪水がとうとうと放流されていた。これを見て激怒した漁民は工場の窓ガラス数10枚を破り、2カ所のマンホールにれんがなどを投げ込み、流れ出す悪水を止めてしまった。このあと、午前10時40分から会議室において、会社側代表数名と、被害者代表として、浦安町長、助役、7か浦の各漁協組合長との間で交渉が行われた。
会社側は、「①アユには害があっても他の魚には害がないと思った。②使用する薬品は悪いとはわかっているが,河川水と混合するので実害はないと思った。③新機械は昨年12月に完成し、本格的運転による放水は4月7日からである。④被害補償金を出すので、引き続き操業させてほしい」ということだった。これに対し漁民代表から「運転中の新機械による悪水は直ちに止めること。旧機械より出ている白濁水については、一日も早く無害になるよう完全な設備を施すこと。補償については重役と相談して決めること」の3項目の解決案を提示して散会しようとしたところ、小松川警察署長から各代表に注意事項があるとの申し入れがあった。しかし、ちょうどそのとき漁民が騒ぎ出したので、署長と浦安町長との間で話が交わされただけで散会した。5月28日午後3時40分から江戸川工場会議室で2回目の交渉が行われた。冒頭、会社側から去る24日の漁民の暴行について激しい非難があった。漁民代表は、あれほど注意したのに悪水を放流したからやったことで会社側に責任があると応酬した。2回目の会議でも、会社側の対応は漁民代表の要求とは対立したまま解決点を見出すことは出来ず、物別れに終わった。5月29日にも交渉が行われたが経営上明日からでも操業させてほしいという工場側の基本的な姿勢と、新機械使っての悪水の放流は死活問題に繋がるもので、絶対に承服出来ないという漁民側の主張で、結論に至らず決裂してしまった。この会議終了後、荒川・深川・葛西・城東各浦の漁協組合長は東京都庁に赴き、ドラムバーカーによる操業を、即時停止させるよう陳情した。
翌5月30日、浦安・浦安第一両漁協の代表者は千葉県庁において、副知事と水産課長に面接し善処するよう求めたところ、本州製紙の森田専務と勤労課長代理が来庁し「東京都側の漁民は、新機械を使用すること、第三者の調査に基づき漁業補償を行うことについて諒解したので、千葉県においても、東京都側の漁民にならうよう尽力してほしい」という申し入れがあったということだった。ところが、この話は会社側がねつ造したものであることが後日明らかになった。
度重なる漁民の陳情をうけて、東京都と千葉県は合同で現地調査を行った。その結果、排水管3本のうち1本から濃褐色の廃水が放出され、褐色の細かい鋸屑のような沈殿物を多量に含み、酸化して黒水に変じた水が、干潮線の沖合まで流れて拡散されているのを確認した。干潟ではカレイ、ハゼ、サヨリ、コチ、ウゴイなどの死魚や、死後間もない貝類が散在しているのも確認した。このあとも、漁協組合代表と会社側との折衝は。東京都の担当部局が間に入るなどしてたびたび行われた。しかし、会社側は、東京都の指導で一端操業を停止するという約束をしながら、こそくにも、市川市の料亭での面談等に応じないなど、強く抗議する姿勢を崩さない浦安漁協に対して、浦安第一、南行徳、行徳の3組合は補償等の仲介斡旋を承諾したので、賛成するよう求めた。これに対し、浦安漁協は承諾せず拒否した。
このあと、葛西漁協を訪問した会社側担当者は「千葉県側の漁協は仲介について承諾したので、葛西漁協でも同意してほしい」と申し入れをしている。これらは全て彼らの作為によるものであり、事実でないことは後日明らかになっている。 |
6月9日、浦安町議会では悪水問題についての議員協議会を開催していた。その協議中突然会社側から一方的に、新機械を操業するとの宣戦布告とも思われる通告を受けた.議会は直ちに会議を中断、議員を二班に分け、一方は東京都庁に赴き、都の担当幹部に「事実新機械が操業されているのかどうか」正したところ、悪水の放流は停止させてあるとの回答を得た。そのあと、砂防会館内の自民党幹事長室で川島正次郎幹事長(当時)に面接した。幹事長室に呼ばれ、放水の有無を聞かれた通産省の担当課長は「悪水は止まっている筈である」と答えた。一方二班は、千葉県庁に出向いて実情を聞いたところ「依然として悪水は放流されている」とのことだった。
度重なる会社側の欺瞞と不法行為に憤慨した漁民は、6月10日午前11時、浦安小学校付属幼稚園舎を会場に「悪水反対町民大会」を開催した。約2000人の町民が参集、会場に入りきれない聴衆は幼稚園の周囲に群がり、異常な雰囲気のうちに大会は行われた。大会では岡島多三郎を議長に、小安浦司を副議長に選出、浦安町漁協の宇田川欽次組合長から、悪水放流から今日までの本州製紙との交渉経過報告があり、大会宣言と決議文を朗続、満場の賛成を得て終了した。
度重なる会社側の欺瞞と不法行為に憤慨した漁民は、6月10日午前11時、浦安小学校付属幼稚園舎を会場に「悪水反対町民大会」を開催した。約2000人の町民が参集、会場に入りきれない聴衆は幼稚園の周囲に群がり、異常な雰囲気のうちに大会は行われた。大会では岡島多三郎を議長に、小安浦司を副議長に選出、浦安町漁協の宇田川欽次組合長から、悪水放流から今日までの本州製紙との交渉経過報告があり、大会宣言と決議文を朗続、満場の賛成を得て終了した。
大会終了後、漁民を中心に各種団体を交えた約800名は、国会並びに東京都庁など関係官庁に陳情するため、観光バス10台に分乗して出発した。国会議事堂に到着した一行は川島幹事長に面接、決議文を手渡して問題解決に援助方要望した。これに対して力強い快諾を得て国会をあとにした。次いで東京都庁を訪れ幹部と会見、「昨日町議会議員が訪れた際、悪水は停止するよう勧告してあると言ったが、今なお放流しているのではないか」と激論となった。加えて漁民代表は、都の担当幹部に対し責任ある対応として、即刻工場に赴き放水を中止させるよう要請し、承諾を得た。都庁からの帰途、一行はバスを連ねて本州製紙江戸川工場に立ち寄り、工場責任者に大会決議文を手渡すべく午後6時頃工場西側正門に到着、工場長に面会を求めようとしたところ、既に陳情団の動きを察知していた会社側は正門の扉を固く閉ざし、守衛が「無断立ち入り禁止」の立て札を左右に振って一行の入場を拒んだ。正門から少し離れたところには小松川警察署の一団も待機していた。
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しかも工場の煙突からはもくもくと煙があがっていて、性懲りも無く操業をつづけている様子だった。
これらを見た陳情団の怒りが爆発した。漁民たちは鉄扉を押し破って一斉に工場内に突入した。口々に「タレ流しを止めろ、俺たちを殺すのか」とわめきながら、資材事務所、倉庫、女子休憩室などに投石し、旗竿で窓ガラスをたたき割った。あちこちで従業員とのこぜりあいが始まったのを見て、待機していた警官たちが一斉に乱入したので、たちまち漁民と警察官との間に乱闘が始まった。勢いに押された警察側は警視庁第二機動隊の応援を求め、ほどなく機動隊が到着。漁民は「我々は会社と話に来たので、警察は引っ込んでろ」と騒ぎはますます大混乱となり、双方に多数重軽傷者がでた。また、この間に4名の漁民が器物破損現行犯で検挙されてしまった。夜になって一旦騒ぎは治まって、警察側との交渉が始まった。漁民たちは「検束者を見捨てて帰るわけにはいかない。彼らの身柄は宇田川町長が責任をもって預かり、後日必要があれば警察へ出頭させるから、今日のところは一緒に帰してほしい」と要請したが、小松川警察署長は「いったん検挙した者を釈放するわけにはいかない」と拒否、応じようとはしなかった。漁民は検束者を帰さないうちは我々も帰るわけにはいかない、と折衝を続けるが一向に聞き入れられない。そのうち警察側は第四機動隊と装甲車2台を増強して警察官の数も600人に膨れ上がった。
午後9時頃宇田川町長らは「今日は一旦引き揚げ、明日再び話合いをもとう」と漁民一行を説得、大部分の者は同調したが、一部の漁民が「やはり検束者を帰すまでは帰らない」と座り込んでしまった。これに対し、機動隊員が漁民を門外に押し出そうとしたので再度こぜりあいが始まった。
漁民は工場の消防ポンプを引き出して抵抗したが、夜10時頃、警官隊が突然大喚声をあげて漁民側に突っ込み、見物中の群衆や逃げまどう者たちに無差別に襲いかかり、警棒で殴ったり靴で蹴とばしたりで、多数の負傷者が出た。それまで漁民は素手で抵抗していたが、警官隊の無法ぶりを見て激昂し、付近にあった丸太や竹竿を各自が手にしてにらみ合い、ふたたび不穏な空気につつまれた。結局、午前1時ごろになって、引率者が漁民を説得し、明朝、会社側と話合いを持つことにしてバスで引き揚げることになった。
これが「本州製紙汚水事件」の発端と、乱闘事件の概要である。この事件で、漁民側から重軽傷者105名、見物中の篠崎町の住民数名、また取材中の毎日新聞記者や読売国際ニュースのカメラマンなどが頭部に負傷したほか、警察官側も重軽傷者合わせて36名が出た。
午後9時頃宇田川町長らは「今日は一旦引き揚げ、明日再び話合いをもとう」と漁民一行を説得、大部分の者は同調したが、一部の漁民が「やはり検束者を帰すまでは帰らない」と座り込んでしまった。これに対し、機動隊員が漁民を門外に押し出そうとしたので再度こぜりあいが始まった。
漁民は工場の消防ポンプを引き出して抵抗したが、夜10時頃、警官隊が突然大喚声をあげて漁民側に突っ込み、見物中の群衆や逃げまどう者たちに無差別に襲いかかり、警棒で殴ったり靴で蹴とばしたりで、多数の負傷者が出た。それまで漁民は素手で抵抗していたが、警官隊の無法ぶりを見て激昂し、付近にあった丸太や竹竿を各自が手にしてにらみ合い、ふたたび不穏な空気につつまれた。結局、午前1時ごろになって、引率者が漁民を説得し、明朝、会社側と話合いを持つことにしてバスで引き揚げることになった。
これが「本州製紙汚水事件」の発端と、乱闘事件の概要である。この事件で、漁民側から重軽傷者105名、見物中の篠崎町の住民数名、また取材中の毎日新聞記者や読売国際ニュースのカメラマンなどが頭部に負傷したほか、警察官側も重軽傷者合わせて36名が出た。
汚水問題はこのあとも、国会でもとりあげられ、漁民、会社側との折衝が続けられたが、らちがあかず、結局、千葉県知事の調停でようやく解決することになる。
また、乱闘事件については、東京法務局長が警視総監に対し、警察官の行動が人権保護の観点から行き過ぎがあったとして「勧告」を行った。 この事件が契機となって、この年の12月「公共用水域の水質の保全に関する法律」が制定されたことはあまり知られていない。 昭和30年代の初めに起きたこの事件は、その後各地で起きた公害事件のはしりだった。いわば日本経済の高度経済成長期のひずみを予感させるような象徴的な出来事だったといえる。本州製紙事件は一段落したものの、しだいに海が汚れて自分たちの漁業が先細りになるのではないかという不安を、漁民の誰もが抱いた。こうした気運と現実としての環境汚染が、その後の漁業権全面放棄と広大な地先海面の埋立て計画へとつながっていった。 私は、前にも述べたように昭和27年から5年間、浦安町漁業協同組合に書記として、勤務していた。転職間近の早春のある日、組合事務所に数名の組合員が飛び込んできた。 「シラウオに油がついちゃって、とれねえ。どしたらよかんべえ」 江戸川河口でのシラウオ漁は、その頃までは大きな四つ手網を使って行われており、春を呼ぶ風物詩のひとつだった。詳しく状況を聞いた担当の私たちは、組合所有の漁場監視船で江戸川をさか上った。沿岸に立地していた複数の工場の排水口から採取した排水のサンプルを持参して県水産試験所に水質検査を依頼したが、工場を特定することは出来なかった。このように、この頃からは、江戸川河口をはじめ、浦安の海の水質環境に変化が見えていたことがうかがえたし、一年後の本州製紙事件の前触れだったと思う。 |
家庭の事情もあり、21歳の若さで結婚した私だが、結婚前に何とか一人前の給与が欲しいという一念から、転職を決意し昭和32年6月に浦安漁協を退職した。
もし、転職していなかったら、職責上から、若かった私は本州製紙に率先して突入していたであろうと思うと、事件後、何か複雑な気がしてならなかった。
もし、転職していなかったら、職責上から、若かった私は本州製紙に率先して突入していたであろうと思うと、事件後、何か複雑な気がしてならなかった。